見出し画像

雨と、パーカー


 ひとり暮らしの部屋には今も使い古された白球が飾られている。

 

 最後の試合、見に行けないのが心残りだな。汚れが、父がそう言って笑った過去の残滓とともにこびり付いていて、この時期になるといつもその記憶が刺激される。

 窓の先に目を向けると雨が降っていて、ガラスに張りついた蛙が、地面に向かって、ぴょん、と弧を描いた。

 インターフォンの音が室内に響き、玄関のドアを開けると見覚えのある深緑のパーカーを着て、深くかぶったフードが顔の鼻先まで覆い隠す男の姿があった。そんなはずはない、と思いながらも思い浮かんだその人物の正体は、フードが上げられるとともに確信に変わった。

 父さん。
 久し振り。
 なんで……。
 まぁいいじゃないか。ちょっと上がらせてくれよ。
 床がぬれるぬれる。とりあえずタオル持ってくるから。
 大丈夫。ぬれやしないさ。

 父が玄関からフローリングの床に上がり、そんな強引な父の変わらない姿を見るぼくは困ったような表情をしていただろう。ぬれた髪は毛髪の先で、しずくを落とすことなく留まっていた。

 どうして――?
 もう野球はやってないのか?

 リビングに上がり、その姿のまま座る父に投げたぼくの問い掛けは無視され、父との未練を残す野球の話が出たことに、どきり、とした。

 辞めた……。
 そうか残念だな。プロのスカウトも見に来てたくらいだったのに……。

 ぼくは父の姿をもう一度、しっかりと見る。父が不審者に間違われたあの日も、そのスカウトは訪れていた。同級生や監督、そしてスカウトの方……みんなの前で恥をかいたと父を恨んだあの時と、今日の父は同じ格好をしている。

 パーカーを着たずぶぬれの怪しい男がいる、と警備員と口論している父の姿を見つけて、紅潮していく自身の顔を実感していくような感覚は今も忘れられない。小雨からすこしずつ強くなりはじめた雨で校舎に戻る途中にその姿を見つけ、おい、あれ誰だよ。やべぇやつなんじゃね。と話し出した同級生の言葉を他人事のように聞きながら、心臓は早い勢いで鳴っていた。グラウンドの周りを囲んでいた関係者のひとたちも険しい顔で父と警備員の姿を尻目に、散っていった。まさかあんなにも雨が降るとは思ってなくてな。家に帰ると、父が苦笑いとともに、そう謝ってきたが、ぼくは意識的に父を避けた。そんな強面でその格好だったら怪しいよ、と心の内で怒りながら。その行動は今も後悔もしている。

 本当に父さん、なんだよね。
 こんな顔が何人もいてたまるか。
 どうやってきたの?
 気付いたら。ここに来ていた。
 母さんには会ったの?
 会わせる顔がない。なぁ今、幸せか?
 最近はひとり暮らしにも慣れてきたし大学も順調だし、最近ちょっとずつ野球以外で新しいことも、ね。
 なら良かった。
 また会える?

 父はそれには何も答えてくれず、立ち上がるとにこりとほほ笑み、静かにぼくの前から姿を消した。

 カーペットの、父が座っていた場所は湿ることひとつなく、そこに確かにいた、という痕跡は何ひとつなかった。

 突然、スマホの音が鳴り、実家の母の声が三周忌の時期を告げる。

 その声を聞きながらほおを伝ったしずくが、父のいた痕跡をつくるように、床にぽたりぽたりと落ちていく。

                           (了)

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく