見出し画像

祈るための文章は終わった。

気づいてくれている方もいるかもしれないけれど、少し前にnoteの毎日更新をやめた。連続600日くらいで。

文を書くのは好きだ。そうでなければこんなに物事を続けられなかった。今まで一番物事を継続してやったのは受験勉強だった。もしくはTOEIC対策の勉強。誰かに褒められるために。なんか箔がつくように。でも、この連続投稿はそういう心持ちでやったんじゃない。

祈るような気持ちでやっていた。毎日が祈りだった。続けること自体にすがった日々もあった。が、総じて祈りだった。自分という人間が今日も自分であるかを確認するような一文字一文字だった。自分のために書いた。と思っていた。色んな場面を思い出す。書くことが思い浮かばずに23:59までねばったこととか、いったんタイトル「あ」の文章「あ」で投稿しておいて日付が変わったあとで文章を書いたりもした。続けるために。祈りだった。自分が文章をうまく書く努力ができないことから目をそらしてるのではないかと思ったこともあった。が、総じて祈りだった。

祈りが何かしらを変えたとすれば、それはほんの少しの間だけ何も気にせずに言葉と向き合えるようになったこと、それだけだと思う。大学時代のノートの切れ端を読むと、モノローグまでが他者からの評価を気にしすぎていて痛々しかった。モノローグはモノローグでいい。俯瞰する必要のないこともある。現在詩が好きで投稿しようと思えばできるのだけれど、これまた振り返ると初めて詩を投稿したときは本当に怖かったり恥ずかしかったりした。こんなものを書いてしまった、とか、異様に何か気にしていた。

誰も見ていないのに。

いつでも詩をかいていいんだよ、と自分が気づけたことは誰かが書いたそれを見る姿勢にも反映されている。詩だけではなくて、音楽とか絵もそう。他人が表現したなにかをみるとき、その表現の過程の痕跡を見て畏敬の念を抱くようになった。

祈るための文章に意味があったとすれば、上記2点がそれだと思う。ただ文字と向き合って綴っていいということ。他人の痕跡がみえるようになったということ。それだけだ。これ以上祈る文章は必要ない。

次にわたしは誰かのために綴る。それが自分を楽しませるかどうかに意識の外でフォーカスして、誰かのために綴る。

祈るための文章は終わった。
続けるのではなく、生きる。行こうか。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。