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深い霧が見えなくても深い霧の中にいるようで

仕事でミスをしても凹みはしないのだけれど、人間関係になにかあると凹む。仕事の悩みはすべて人間関係に関するものなのである、なんてどこかのビジネス書のように喝破することはできないけれど、まあまあそれは正しいような気がしている。目に見えるもの相手なら、比較的すぐ対策が打てる。次の見通しが立つ。霧が晴れる。そういう感じだ。

人間関係の霧が晴れることは多分ない。一時的に見通しがたった気がしても、また霧に包まれる。というか包まれているのかもよくわからない。そこらへんがよく分かっているなら、数千年に渡って「心」とか「人間」について頭脳の優れたひとびとが議論し続けることもないと思う。そろそろなんか霧が晴れる手がかりくらいは見えてもいいでしょう。けれどもそうはならない。

矛盾したことを言うようだけれど、たとえ心の姿や動きが見えたとしても問題は解決しない。外から見るそれと内側から生きられているそれはどこまでもその端緒で分岐し続けるからだ。

とはいえそこらへんのごちゃごちゃがあるから、楽しさも生まれるとも言える。そこに思いを馳せると極端なときには「言葉がなかったらこの世界はどんな感じだったの?」という疑問に行き着く。そこは言葉がないゆえに言葉では届かず空転してありゃりゃになるのだ、といつか哲学の本で読んだ。(嘘つけ)

でも、空転するけれど「人間は言語の限界に向かって突き進む傾向がある」らしいよ。これも哲学の本で読んだ。その本を書いていた人は激しい生涯を全うして最後に「わたしの人生は素晴らしかったと彼らに伝えてください!」と言葉を残して亡くなったらしい。生涯そんなこと考えながら生きて彼は幸せだったのかどうなのか、そんなんわからん。語り得ないものについてはひとは沈黙しなければならない。けれどこの霧から逃れることもできないから、自分なりにその都度フォグランプでもこしらえて生きようと思う。さあ宅飲みだ。レッツゴー。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。