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内面の咲くバーのほとりで

一昨日酒に関する記事を書いて、昨日はそれに関する補足記事を書いた。
繰り返しになるけれど、反応があったのは嬉しかった。

反応があった割に次の補足記事の閲覧数が少なくて不安だけれど、まあそんなことを気にしても仕方がない。それが通常営業だ。

少ないよね。少なくて当然だ。

普段自分の記事を見る人が少ないのは、有用な情報が極めて少ないからだと思う。通常営業つまんないよね。知ってる。

あと、内面の記述が多いからだ。

人の内面なんてどうでもいいよな。
大切な人以外の内面なんて特にどうでもいい。他人の夢と同じくらい、どうでもいい。

(じゃあそれを見てくれる人は多少なりとも自分の内面に興味を持ってくれてるのだろうか、とかうぬぼれる夜もあるよ。酒が入ればなおのこと。)

まあ、くだらないことだ。それは。

そこには今日の晩酌をおいしく彩る情報もない。
酒に関する詳細で逐語的なレビューもない。

多分それらは僕よりもっと上手に書く人がいるだろう。
先日田中泰延さんの著書を読んだけれど、「自分より上手く書く人がいたらその分野では読み手になろう」というニュアンスの文があった。その通りだと思う。

僕はその手のことに恐ろしく興味がない。

他人と自分では味覚も経験もまるで違うのだから、味についてストレートに(逐語的に)主観的に詳細に述べた文に価値を感じない。

(だからせめて化学にでも頼って多数の味覚に共通に響く可能性がより高い客観的な物質のデータに訴えたりすることの重要性を感じたりするのだが)

その客観的なものを人間ひとりひとりがどういう風に実感しているのかということについてもっと興味があるけれど、それはまあおいておこう。どう問うたらいいのか全然分からないし。

とかく酒はおいしくて。飲むと何か語りたくなって。


それで一昨日みたいなことを書いてしまうわけだ。
酒を飲んで「ああうまい」で済ませたら一番いいのに。
そうはならないから、書いてしまうわけだ。

酒について問題を感じる点なんていくらでもある。
たとえ業界歴の長い方には一笑に付されるようなことであっても疑問は疑問だ。

で、書くとたまに反応がある。
それ自体は喜ばしいことなのだろう。
現に嬉しい。はま寿司で3、4人前の持ち帰りを頼むくらいは嬉しい。

けれど反応がある度、嬉しさとともに焦りがあるのである。
焦り、イライラ、どうしようもなさ、それ以上踏み込めないフラストレーション。

とりあえず勘違いが過ぎる反応に対して、「違うよ」と言いたい気持ちが募る。できないから昨日みたいな補足を書くわけだが。

薄青瓶について書いた時はその最たるものを感じた。

酒関係の職に就いているが故に、酒について問うときに懸念材料が増えるとは一体どういうことだろう。だから無駄な閉塞感が増えるんじゃないのか。

比較的自分はそういったことに対して鈍感を貫いているけれど、それでも気になるは気になる。鈍感な自分でも気になるのだ。

きっとこれまでも同じようなもどかしさを感じた人が数多いるだろう。

いったいこれまで生きた何人の人が酒関係の職にいるがゆえに気になったことを飲み込んできたのだろう。時に無心無言で。時に酒を飲みながら。時に誰かに語りながら。

それに思いをはせるとその数には限りがない。

自分が家庭を持った今、そういう事情で呑み込む人もいるのだろうなと思うとなおやるせない。


そこら辺を考えると、もう面倒くさい。

もう考えたくないし、書きたくもない。

「酒はうまいが最高だ」で済ませたい。

しかし、現に、問題は多くある。

だから書かねばならない。

臭いものにしたフタは密閉できないようにできているのだ。

100万人の鈍感人の中に、きっと犬並みの嗅覚の奴は現れる。

そいつは密閉されたフタの内側のDMTSにだって気が付いてしまうのだ。

僕がなんもできなくても、せめてそいつに届け。

だから、そいつがなんか感じろ、と思って何があっても書いてしまう。

そういう感じで書いてます。偉そうに聞こえるかもしれないけれど、大したことは書いてないってわかってるけれど、そんな感じです。

これらは内面をさらけ出しても許してくれるバーみたいなところでこっそり話すべきことでしょう。

そのほとりで、笹舟を流すように放つか我慢するべきことなのでしょう。

けど、僕はそれができない。

だからこれからも、そこは変わらない。



行く末をもう少し考えるべきだと最近思ってます。とても。
乾杯。


酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。