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RYONAデザイナー: 得意と不得意 : 自分の”好き”を貫く人生であり続ける為に続けたこと①

初めまして。Ryona(リョナ)と申します。ずっとnoteを始めるにあたって自分なりのタイミングを探していました。今回やっと書いてみようと言う気持ちになったので、これを良いタイミングと思ってこれから自分の言葉で書き残してみようと思います。

まずは自己紹介を踏まえた内容にしたいと思っています。

今回書いてみようと思ったのにはきっかけがあって、今年の初めに名古屋にある椙山女学園大学の皆さんに向けてとある講義をさせて頂きました。
その後寄せられた皆さんからの感想文を読ませて頂いて、今まで自分のことを語ることはあまり得意ではなかったのですが、自分の話すことから多くの学生の方が刺激や気付きをもらったと言うことを知ることが出来て、もしかしたら学生の方以外にも自分の話をすることで、これからの何かのきっかけや気付きを与えることが出来るのかもしれないと思いました。

外出自粛の続くこんな時期なのも重なって、自分の振り返りにも良いきっかけになると思い、実際に講義で話させて頂いた内容を踏まえながら今の自分の言葉でこれから自分の経緯や経験などを綴ってみようと思います。

(今年の1月椙山女学園大学での講義での様子です。)

私のことを知って下さってる方もいらっしゃれば、そうでない方もたくさんいらっしゃると思います。まずは自分の仕事や活動のこと。そしてそれ以降は”あーこんな生き方もあるんだ。” ”こんな人もいるんだ。”と言うようなあくまでも一つの人生の例として、ご興味がございましたらここからお付き合い頂けたら嬉しいです。

私自身は全く硬い人間ではないので、ここから先時よりラフな言葉遣いになるかとは思いますが、そこは楽に行こうと思いますのであしからず。

まず今私がしているお仕事の主な内容についてです。
主にアクセサリーブランド”Ryona”とお花の装飾やディスプレイといった空間装飾、そしてワークショップの開催などをしています。

アクセサリーブランド”Ryona”についてお話しすると、見ての通り私の下の名前がそのままブランド名になっているアクセサリーブランドを2006年にロンドンでスタートしました。元々はブランド名を大文字の”RYONA”からスタートしたのですが、自分と共にブランドも成長したことも重って、より洗練された大人の雰囲気へと見直すタイミングで2018年にロゴをリニューアルし”Ryona”へと変わりました。

元々のロゴも今もとても気に入っているので、今もジュエリー以外の場面では元のロゴを使用してます。表記もジュエリーに関しては”Ryona”・その他全般には"RYONA"としてます。

ここでロゴに関するリトルストーリーを少し。
(上が当初からのロゴ(当初はカラー)・下が2018年に変更したロゴです。)

実はこのロゴ(上)、私がブランドを立ち上げた後デザイン学校時代の先輩からホワイトデーのお返しとしてもらったものなんです。
学生の時から抜群のセンスで今もその頃の仲間たちと一緒にインテリアデザイナーとして活躍しています。
こんなお返し素敵すぎる!ととても嬉しかったことをよく覚えてます。
そんな思い出のこもったロゴ。今も大切にしてます。

(Ryonaコレクションの一部です。ファッションの一部と言う感覚で”着るアクセサリー”としてコスチュームジュエリーを展開しています。)

次に、お花の装飾やディスプレイ、空間装飾のお仕事です。

この後順にお話したいと思いますが、元々は空間デザイナーになりたくてデザイン学校で空間デザインを専攻し学んでいました。
その後ひょんな流れからアクセサリーブランドを始めることになったのですが、学生の時からやりたかった空間装飾のお仕事を今こうしてやれてる事には本当に嬉しい気持ちと繋げてくれたご縁に感謝の気持ちでいっぱいです。ホテルの客室内の装飾やエントランスなどの装飾もさせていただいています。この流れも後々書きたいと思います。

それ以外には不定期でお花を使ったワークショップを開催しています。
ワークショップはアトリエで少人数制で行うものと、企業様と一緒にお客様サービスの一環としてワークショップイベントを開催したりと様々なスタイルで行ってます。
何かを作ることは型にとらわれる必要はなく、まずは作ることの楽しさをもっと自由な感性から知って広がって欲しいと言う想いがあったので、それをワークショップを通じてたくさんの方に知ってもらい、日常を忘れて夢中になれる制作時間とそのあとの日常に今まで以上の幸福感を感じてもらえる時間をお届け出来たらいいな〜と思って続けています。

(アパレルブランドのお客様サービスイベントとして開催したワークショップ)

(都内某ホテルの共用部分の装飾)

このようにどこか共通しているようで共通してないとも見える様々な場所でお仕事をさせてもらっているのですが、どのようにして今の仕事に就くことになったのか。どうしてこのような流れに行き着くことになったのか。今に至るまでの流れをここから話してみたいと思います。

まず、私は三人兄弟の真ん中っ子として生まれ幼い頃から物を作ることが大好きで何でも自作するような子供でした。ファッションが大好きな母の影響もあって、中学生くらいになると洋服などもリメイクして自分で着て楽しんでいました。編み物にハマったのも中学生の頃だったと思います。それから部屋を模様替えすることが大好きで、家中にある使えそうな物を何でもアレンジしては組み立てて、布を貼ったり壁をペンキで塗ったりと、新しく買うのではなくあるもので空間をアレンジすることが得意でした。

基本的に人間が大好きで友達も多く活発な子供だったと思います。ただその頃からあまり人のしていることには興味がなく、基本人と自分を比べることもまずしないような性格でした。それは意識的にと言うよりは、ただ単純に興味がなかっただけのように思います。誤解がないように補足させてもらうと、興味がないと言うのは決してその人自身に興味がないと言うわけではなくて、多分昔から”人は人・私は私精神” が強かったのかもしれません。

そして自分の感覚だけを信じてまっすぐに進む直感タイプ。そんな私が言われ続けたことは、”自由な子”でした。

その”自由”ということに自覚が出たのは随分と大人になってからだと思います。それまで自分のことを自由だとも変わってると思うこともなかったけど、段々大人になるにつれて、あーきっとこれが人からすると”自由”と映ることなのかな。と気がついて来ました。

そんな”自由”に生きて来た私ですが、高校生の頃に初めて進路を決める時がやって来ます。幼い頃から物を作ることが好きだった私は、ごく自然とデザインの道を選択します。デザインと言っても色々な方向性がある中で私は、部屋の空間作りが大好きだったこともあって、将来は空間デザインの仕事がしたいと思い都内のデザイン学校へ進学することにしました。

私の専攻していた科は芸能デザイン科と言う科で、インテリア、家具、製図、照明、店舗設計、ディスプレイ、舞台美術に至るまであらゆることを広く学ぶ科でした。

この頃私はもちろんこの先自分はこのまま空間デザインの道へ進むのだろうと思っていたわけですが、製図の授業が進むにあたり一つ大きなショックなことに気がつきます。。。何でも感覚頼りで大雑把な性格の私は、きっちりとミリ単位で引いていくことが絶対の製図の世界が苦手でとても苦戦します。

あの頃授業では手描きで図面を引いていて、きっちりと計ってまっすぐ線を引くということが出来なくて、図面には許されないアバウトな仕上がりにもちろん先生の目を誤魔化すことは出来ず、ある日先生からこんなことを言われてしまったのです。

”このまま建てたらこれ倒れるぞ。”

その言葉を聞いた時に私は確信してしまいます。

”空間デザインが大好きでも、仕事にするとなればこの図面の問題から逃れられない。”

そう思った私は、”あー、だめだ。。。私にはこの世界は向いていないかもしれない。。。”と思いハッとしました。

(画像は学生時代の模型の授業での様子)

そんな時私はよくこんなことを思っていました。

”1から図面を起こして空間を作ることは確かに向いていないかもしれない。けれども自分は出来ている空間を飾ったりより良くするためのプラスαのものを探したり作り出すことは得意だ。それじゃだめなのかなぁ。そもそもそう言う仕事ってあるのかな?それって何て言うんだろう?” 

今で言うデコレーターさんやプロップスタイリストさんのような職があることをその当時の私は知らなかったんです。

こんな思考がぐるぐるしまだ先のことが漠然としていて見えていなかった中、同級生たちは続々と就職の準備や自分の進路を決めていて、自分はこれからどうしようかと悩んでいたある時、この後の転機とも言える出来事が起こります。

ちょうど学校の卒業旅行でニューヨークかロサンゼルスに行く機会がありました。その当時から今もずっと仲良くしている3人の親友たちは全員揃ってロサンゼルスを選択した中、私は一人ニューヨークへ行くことを選択しました。(あの時どう考えても仲良し全員でロスへ行く選択の方が楽しかっただろうに、そこは私の直感と頑固さが出るんですね。なぜかそう言う時、若さならではなのかな。変な頑固な自分が出てくるんです。”遊びに行くんじゃない。もっと学べるものが見たい。” と。)自分は一人でもあっち!と言うどこからか湧き上がる信念を曲げることなく、私はニューヨークへ飛びだちました。(ロスを選択したことが悪いと言う話ではありません。今思い返せばみんなと一緒にロスに行っていたらまた違ったことを学べたんだろうと思う。ただそこで最後まで気持ちを変えなかったあの頃の自分は何だかとても強かったなーとその頑固さを思い返すとちょっと自分でも笑ってしまうのです。そして今はロスにとても興味がある!)

ニューヨーク。初めて見るニューヨークはそれはもう感動しました。大都会なだけではなく、近未来的なビル群のすぐその隣に歴史的な古い教会などが並び、その新旧がミックスされた街並みがとにかくカッコよくて、ちょうど二十歳の誕生日を迎えたばかりのあの頃の私は、その見たこともない街並みとそこにいる人々にとても大きな感動を受けます。

その何とも言えない空気感と感覚がしばらく肌から抜けず、それから私は海外雑誌をよく手に取るようになりました。ファッション誌やインテリア雑誌、そして家具やDIYの特集など。見るものずべてが刺激的だったし、それでいてその世界をとても楽しんでいる自分がいました。

それまで先にも話した通り、私は昔からあまり特に会ったことのない人に興味がなかったので、それこそ芸能人やアイドルなどにも興味がさほどなく、ファッションも流行を気にすることがたいしてない学生時代でした。なので今まで雑誌に興味を持つようなこともほとんどなかったんです。 現に中学生の時に母から譲り受けたスウェードのロングコートは20年以上経った今でも毎年着ているお気に入りだし、ワイドパンツが好きで学生の頃から変わらず今でもずっと履いているものが何着もあるし、昔の写真を見ても着ているファッションは今とほとんど変わらない。

ちなみにクラスで好きなアイドルの下敷きを持つのが流行っていた中、私も何かそう言うの欲しい〜と思って持ってた下敷きは新聞か何かに付いて来た「あぶない刑事」の舘ひろしさんの下敷きでした。笑 

そんな自分が海外雑誌をとても楽しんで見ていたことはよほどその世界感が好きだったのだろうと思うのです。

(この時着ているスウェードのロングコートが母から中学生の時に譲り受けたコートです。写真は去年のもの。)

そんなある日、本屋さんで”ロンドン”の文字が大きく目に飛び込んできました。その頃何かとよく見かけた”ロンドン”の文字。インテリア雑誌でもファッション誌でも音楽系の雑誌でも、”今ロンドンが熱い”と色々な特集がされていて、そこでたまたま手に取った雑誌の中で、ロンドンのファッションスナップ特集をみて、それまであまり人のするファッションにも興味がなかった私は、初めて”かっこいい!”と胸がときめいたのです。

そこに写るいわゆるロンドナーたちは、自分のスタイルを確実に持っていて、そのスタイルを自由に楽しみ、そしてみんなが自信に溢れているように見えました。

その頃日本ではアイドルの真似をしたファッションが大流行していて、みんな同じファッションをする当時の日本の流行に馴染めず違和感を感じていた私にとっては、まさしくその雑誌に写るロンドンは自分の求めている世界そのもののように感じました。

インテリア雑誌で見るロンドンの住宅や店舗のインテリアもその頃の東京では見ることのなかった自由さがそこにはたくさん詰まっていて、一見自由でまとまりのないように見える配色や家具の配置なども、そこには確実に一つの”スタイル”がありました。

あの時ニューヨークで衝撃を受けた時もそうだった。

自分流を楽しんでいた私は、時にその感覚を受け入れてもらえないことがあり、色使いが面白いと言われ、組み合わせが不思議だと言われることもしばしば。そんな風に言われることは大して気にならなかったけれども、それでも誰が決めているかもわからない”正解”の形にモヤモヤしていたんですね。そしてなんだかわからないけどすごく悔しかったことを覚えています。変だと言われることよりも人と同じが当たり前とされる流行の流れは好きではなかった。

写真は当時今から20年近く前、今でこそ普通になったネイルアートを自己流で楽しんでいた頃のものです。いろんな色のマニキュアを自由にランダムに筆で重ねて塗って楽しんでいました。当時されていたネイルは綺麗なフレンチネイルやせいぜいお花の柄くらいだったので、このただランダムに塗っただけのネイルは当時友達にも全く理解されずw よく変だと言われていました。 けど私はすごく気に入ってた!

流行が悪いと言うことが言いたいわけではなくて、でもどうしても人は同じ流れに乗ることで安心するんだと思う。あの頃の私はそれがつまらなかったしその流れの中にいるのが居心地が悪いと感じていた。

デザインやクリエイトすることに正解も不正解もないじゃない。もっと自由でいいはずなのに。

そう感じた私は決心します。

卒業したらロンドンへ行こう。と。

両親に一年の約束で留学することを許可してもらい、22歳になったばかりの2003年9月。いざ、ロンドンへ旅立ちます。

ロンドンは多民族都市。ヨーロッパ・アジア様々な国の人たちがまじ合う都会で、見に写るもの全てが刺激的でした。ラッキーなことに叔母がロンドンにいたこともあり始めの3ヶ月間はホームステイをさせてもらいながら、語学が全くと言うほど出来なかった私はロンドン市内の語学学校に通い始めます。

そこで私は一つ自分に決め事を作りました。

それは、”ロンドンに来てまで日本人の友達は作らない”

そう決めた私は頑固な性格なのもあって、そこから約一年徹底的に日本人との交流をシャットアウトしました。

今思えば相当突っぱねてたなー。話せるようになるまでは会話ができないのでとにかく無口な子。今じゃ考えられないw 一日中ほとんど会話しないことなんてしょっちゅうで、でもなぜかすごく楽しかった。若いって素晴らしいんです。笑 

だけれどもそのお陰もあってか語学も上達し、半年が過ぎる頃には日常生活で困ることはほとんどなくなりました。

(クラスメイト達と学校の前で。当時22歳。)

この後結果として両親との約束を遥かに超える4年もの間ロンドンに滞在することになるのですが、2年目過ぎた頃に日本から親友が同じくロンドンへ留学に来たことで、それ以降私のちょっと過激だったとも言える日本人シャットアウト宣言はあっと言うまに取り消しにして、友人達と楽しく過ごします。日本からの親友と一緒に過ごしたロンドン生活、本当に楽しかった。

そんなロンドンでの生活がすっかり気に入り、 ここからさらに思い思いの日々を過ごします。

今回はここまで。

....

次はロンドンの生活の中で起こった様々な出会いや今に至るきっかけとなった出来事などを話したいと思います。

ここまで読んでくださったことを感謝いたします。

Thank you.

Ryona Song


RYONA Official: https://www.instagram.com/ryona_official/

RYONA creative and flowers: https://www.instagram.com/ryona_creative/


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