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難解なんじゃない、想像するしかない

先日、天神のアニキから薦められ、Amazonで即ポチった遠藤周作『海と毒薬』(1958)が届いたので、一気に読みました。本日はその感想です。一気に読んで一気に感想まで書きあげたもので、誤字脱字以外はなおすつもりがありません。我ながら大層猛々しい文章を書けたものだなと思っています。

感想なので筋をいちいち追うつもりはありませんが、ネタバレも当然のごとくでてきます。ネタバレが苦手な方は、ここで一旦手を止めて、一度ご自身で読んでみてからここに戻ってきてくださいね。電子版もあるそうです。

それではまいります。




本稿のタイトル

タイトルはいつぞや受けた出口治明さんの『貞観政要』を読む、というオンライン講演の中からインスピレーションを受けた。曰く、「歴史を知るうえで大事なのは、その歴史の状況を考慮、想像することです。たとえば桜。今我々が桜といってイメージするのはソメイヨシノですが、あれは江戸末期に品種改良の結果誕生したもの。万葉集や古今和歌集、或は本居宣長が桜という時、アレ(ソメイヨシノ)をイメージせずに、ヤマザクラなどをイメージできるか、ここが歴史を現在に生かすうえで不可欠な見方です」と。
「わからない」「知らない」ものに出会ったとき、われわれは既存の知の枠組みや、既存の語彙で解決しようとする。が、少なくとも過去を振り返る場合、それは真摯な態度とはとても言えないのではないか、そんな含意があると考えていただきたい。

なぜこんな話を唐突に出したかというと、自分には小説にしろ学術書にしろ、文庫になっているものは「はじめに」と「おわりに」乃至は「解説」から読み始めるという癖があるからだ(読んで無駄な本をできる限り読まないようにする中で身についた技術だが、当面ここから逃れられそうにない)。何のことを言っているのかわからないといわれそうで、自分でも半分よくわかっていないのではないかと思いつつ、感想文は解説から始まること、ご了承願いたい。


解説

今回あたった文庫は講談社文庫の新装版、「解説」は内科医の傍ら作家としても活躍する夏川草介氏である。日付は2011年の2月、偶々とはいえ東日本大震災の直前の時期にあたる。

まず、この解説に圧倒された。本稿の筆を執るに先立って解説の感想を別に上げたが、それをほぼそのまま転載させてもらおう。

夏川草介氏の解説は読ませる。十年前、東日本大震災直前に紡がれた文章が、不滅だ。少々の抜粋をご寛恕いただくと、
「すなわち遠藤氏が描いたのは、『良心を持たない日本人』である」
「先日試みに、同じ病院で働く後輩の医師たちに問うてみたが、驚いたことに、二十代後半の医師の多くが、題名は聞いたことがあるが読んだことはないと答え」「『難解』と忌避する声が少なくない」「『海と毒薬』は、かかる読者の到来を予期した書でありながら、その予期が的中した結果として、むしろ難解となったと言っても過言ではない。すなわち氏の描き続けてきた良心の喪失とは、我々にとって彼岸の話ではなく、まさに足下の問題なのである」抜粋ここまで。
おそらく鴎外漱石から日本文学が爾来百年以上向き合ってきた「近代的自己」への向き合い方を巡る葛藤や不安感を、遠藤周作もまた抱えているわけだが、この問題、未解決な許りか、却ってここに取り組むことを忌避してきた結果が現代なのかもしれないと思うと、背筋に冷たいものがはしる。
では我々が依って立つ倫理(良心の体系)とはなんなのか。全員に当てはまるものはなかろう。個人的には論語/孟子/老子/韓非子/荀子の五篇を基礎教養としたものと思っているが、これらも「教養」というモード(流行)の中で消費されてしまう現実もまたあり。ただここで嘆いていても何も始まらない。
(中略)さあて、読む前からこんな大部の感想だ。読後はどうなることやら、はてさて。

翌日、本文を読むにあたり、いかに自分の考えが浅薄だったか、厭というほど自分は知らされることになる。


第一章 海と毒薬

個人的に、もともと病院という場所は好きではない。そんな自分の中では、すりガラスの向こうに病棟の景色が浮かび、病室の饐えるような臭いを嗅がされ、悶えさせられる。あまりに真実味がありすぎて、グロテスクな描写なのだ。
勝呂が醜い。
醜いのみならず醜悪でさえあるのだが、彼の弱さはこれでもかと共感してしまう自分がいる。多分、彼に醜さを感じてしまうのは、倫理とか、良心とか、かたっ苦しい大上段から構えたところにあるのではなしに、葛藤や躊躇、逡巡といった行為が握りつぶされる状況が有無を言わせず提示させられる、というところにあるのだと思う。
ただ、外的要因はそれ以上でもそれ以下でもない。現実としてそこに存在するだけである。畢竟勝呂は葛藤さえせずに、部屋の隅で縮こまっている。
そこなのだよ。人間の弱さを抉り出して、のちに出てくる臓器のように曝け出して陳(なら)べたうえで、読者に共感させて、それでも「否」といえるかがどうかが、遠藤のいう「良心」なのか。読みながら懊悩させられる。


第二章 裁かれる人々

おい、解説に出てくる「王道を『難解』と忌避する声」の若手医師だれや、ちょっとおまいらに講釈垂れてやるから恥ずかしがらずにでてこい。安心しいや、講釈垂れるだけで殺しはしいひんで。

と思わせるほど、わかりやすいのだ。ここの章は結果的に最終章への伏線となっていくのだが、正直なところそれ以上の位置づけはないのではないか、と思っている。この章がなくとも、想像力さえあれば、次の章は読めるのだ。あとから足したのではないかと思うほど、遠藤は各キャラクターの「良心」が霧消する理由を丁寧に描き出していく。あるものは嫉妬、あるものは歪んだ自尊心。上述した「出口先生のいう、歴史的背景の想像力」を加えるなら「毛唐(けとう)」という言葉や大連での経験といった人種をめぐる問題だったり、子供を産めない体になった女性の心理描写についてだろうか。これについては、前者は同じ遠藤周作の『留学』の第一章「ルーアンの夏」や劇画家池上遼一の「魔都」(池上遼一耽美コミック傑作選『肌の記憶』等に所収)を、後者については江戸川乱歩の掌編『毒草』を、それぞれ読むことが理解の一助になる、かもしれない。同世代を生きておらず、遠藤が著述する心理描写に共感できないなら、私たちはそれを想像するしかできない。


第三章 朝のあけるまで

事件は起きた。それぞれのその後が描かれる。勝呂は主人公でいるようで、結局群像劇の一人でしかない。

この章が一番読み進めるのがきつかった。なんなら読むことができなくて、何ページかを読み飛ばさざるような得ない状況だった。それにきちんと向き合っていたら、自分は白目をむいて口から泡を吹くか、反吐と胃液を口から出しながらページをめくっていたのだろう。読み終えた今でさえ、読み飛ばしたページを見ようとは思わない。
実は、第三章を読むのには体力がいる予感が、第二章を読み終えた時点でしていた。実際、非常に体力のいる作業だった。40分間、不忍通りを都バスに揺られながら読む第三章は、凄絶な虚脱感と眩暈をおぼえるものだった。何も今日が金曜日で自分にとって週の終わりだからというのだけではない。それはあたかも、行きずりの素人の女とお互い慾情のままに一晩を共にして、翌朝乱れた部屋から化粧のはげた彼女が帰るのを見届けた後、突如と襲ってくるアレに限りなく近い。あらゆるものが厭になる感覚は久しぶりだった。

虚脱感・虚無感を覚えるのは読者である自分だけではない。この事件をめぐる群像劇の出演者たち、そして描かれなかった者(橋本教授もその例に漏れないだろう)も同様に感じているのである。そして、あるものは嫉妬に対するマウントで、あるものは日常に還元してしまうことで、その虚無を埋めようとする。ただただ、勝呂と読者は現実の前に打ちのめされ立ち尽くし、冒頭のシーンへと、言葉なきまま帰っていくのである。そうした意味では、物語は永遠のループをし、輪廻の業から読者を逃がさない。

然して、ページは先にめくられ、昨日見たはずの解説の二文字が、夏川草介という四文字とともに眼前に現れる。これを読むのは、小説の値踏みをしている自分では、もうない。読者になった自分だ。情交の時に女の体にするように、舐め尽くし、貪り尽くして、自分の色に染め上げるのだ。


解説、そして再び

はじめに断っておくべきだったかもしれないが、自分は医者でも、キリスト教徒でもない。だから、夏川氏のいう、「医師を目指すものであれば、必ず読むべき書」のいくつかを全部読んだわけではないし、今後も読むことはないかもしれない(『高瀬舟』は教科書で読んだが、『白い巨塔』は正直食傷気味だし、『夜と霧の隅で』は気が向けば、程度の認識で現在いる)。それでいいと思っている。
それでも、解説についてもう一度触れざるを得ないのは、読了したものとして、「多種多様な価値観が林立し、多種多様な善と悪とが乱立している今」においても、倫理という観点から一筋の光明が見えるのではないかと感じたからだ。

國分功一郎という哲学者の名を聞いたことがあるだろうか。スピノザ研究者が『暇と退屈の倫理学』(2011)を携え華々しく登場し、いくつかの本を出した後に『中動態の世界』(2017)という大著を上梓した。先日機会があって四苦八苦しながら読了したが、すごい本である。語彙力のなさに笑ってしまうがすごいのだ。(余談だが、國分は本書で小林秀雄賞を受賞している)

この本の何がすごいかというと、「近代」の特徴とされた、副題にもある意志・責任という概念を一枚ずつ歴史から紐解いて解体していく、その道筋をつけたというところにある。「ケアをひらく」という医学書院のシリーズとして出版され、医療・ケア関係者から大きな支持を集めたのも納得なのだ。すごい。もう『海と毒薬』を読み終えた時点で語彙が残っていないのだ。

これは個人的な見解の域を出ないが、漱石が英国留学中に苦しみ、鴎外がドイツから帰ってきて完成させようとしたところに始まる「近代的自己」のイメージとは、意志や責任の所在を明確にする存在なのではないか。その桎梏を打ち破った先に見える、勝呂の懊悩、そして我々読者の懊悩はどのような世界にあるのだろうか。

元々オチをつける予定のなかった感想文に、本当にオチがつかなくなってしまった。
先人が100年以上悩み続けている問題に、一朝一夕に答えは出るわけではない。ただただ自分ができることは、冒頭に述べた倫理に則ったうえで、新たな手立てを模索しながら日々生きることだけである。ご縁がある方とは共に生き、共に懊悩していきたい。

最後にひとこと。勝手に天神のアニキと命名してしまいましたが、アニキ、きっかけをくれてありがとうございました。久しぶりに小説ときちんと向き合う経験ができましたし、今じゃなかったらこれを読むことができなかったかもしれません。こればかりはご縁ご縁。本日湯島に御礼詣でに伺いましたので引き続きよしなに。

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