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僕の壮絶な高校野球人生 完結 〜ありがとう〜



僕の進みたかった進路はこれだ。

「大学へ行かず、東京へ行き、俳優になること。」


でも僕が進みたい進路を、納得してくれる人はいなかった。

監督やコーチに話しても、理解してもらえない。
親にも反対された。

皆は僕に対して、
「大学に進みなさい。」と言ってきた。

僕は、絶対に大学には行きたくなかった。

なぜなら高校生活で散々、強制的に色々なことをやらされた。
自分がやりたいことや、自分の意見が通ることなんて一度もなかったと思う。

だから僕は、もうこれ以上自分のやりたいこと以外をしたくなかった。
でも大学に行ってしまうと、また自分のやりたくない勉強をやらなければいけないし、やりたいことに時間を費やすことができない。

でも僕の思いはなかなか届かなかった。特に母親には。


母親があまりにも反対するから、しょうがなく僕は別の道を探し始めた。
色々と考えた末、見つけ出した道が、演技の専門学校に行くことだった。

「どうしても大学は行きたくない。
だから俺はこの専門学校に行く。ここで演技を学んで、その後俳優になる。」

専門学校のパンフレットを持ちながら、そう母親に伝えると、「分かった」
と言ってくれた。

僕は一安心したまま、その専門学校の受験に行った。

受験では、事前に学校から渡されていた台本を、皆の前で読むというものだった。
僕はとてもワクワクしながら受けることができた。
中学生の頃に、文化祭の舞台で主役をやっていたので、演技経験はあったのだ。




結果は、合格だった。



僕は母親にそのことを伝え、学校の進路先にも専門学校の名前を記入した。





気づけばもう年末になっていた。

野球部を引退してから早くも5ヶ月が経つ。 
実は僕達、野球部は引退してからも2日に1回のペースで後輩の練習の手伝いに
行かなければいけないという、僕からしたら、本当に理解ができない、意味のないルールがあった。
だから引退してからも、ダッシュを100本したり、300メートル走もやっていた。

大学に進学して野球を続ける人間は、大学の為に練習すればいいと思う。
でも、僕みたいに野球を続けない人間が練習に行かなければならないというのは、ちょっとおかしい気がしていた。

卒業してからの為にお金を貯めたいからアルバイトもしたいし、車やバイクの免許も取りたかった。 

引退した当初は、このルールに従いながら2日に1回の練習に行っていたのだが、
もう年末になる頃には、僕はほとんど練習には行かなかった。

今だから言えることなのだが、
僕は監督に進路相談で、俳優になるという夢を熱く語って、そうなる為に演技の練習に行かせてほしいと言った。
それを使って、本当はないのだが「演技の練習が始まったので部活を休ませてください!」
と嘘をついて練習を休み、その時間を使って、アルバイトをしたり、免許教習に通っていた。
色々考え抜いた結果、この戦略を見つけ出したのだ。

練習に行くことに意味を感じなかったし、そんなことをやっている時間があるなら卒業してからの為の準備をしたほうがいい。 そう思っていた。 

とにかく出遅れたくなかったし、嫌なこともしたくなかったし、自分の意見が通らないのなんて絶対嫌だった。
だからルールを破って、自分のやりたいことをやった。
でも今から考えると、この行動は確実に間違ってなかったと言える。



12月31日に友達と、来年の目標について語り合った。
その時にふと思ってしまった。


俺は本当に大阪にある専門学校に行きたいのか?
 それをしたら俳優として成功できるのか?


僕の答えは「ノー」だった。

来年の目標を語っている時に、僕の頭の中にあった想像は、 
東京でアルバイトをしながらオーディションを受けている姿だった。

ここでまた、自分との戦いが始まった。

もう合格してしまったし、親にも学校にも専門学校に入学することを伝えてしまっている。
卒業まで後2ヶ月、今から進路を変えると言ったらどうなるのだろうか。
母親はこんなことを言ったらまた悲しむだろうな。
そう思いながら、僕は年を越した。




進路の話しはいつしようか。。 

そんなことを考えていた僕に母親からこんなことを言われた。 
「専門学校の入学金の支払い期限が迫ってるから、忘れたらあかんしリョウマも覚えといて。」

僕は思った。
「行かない学校に入学金を払うなんて、もったいない。
今すぐに母親に言わないと。」

僕は勇気を出して言った。
「ごめん、やっぱり専門学校行きたくない。
 やっぱり卒業したら東京行くわ。」


母親はとてもびっくりしていた。
そして、反対された。

母親と意見の違いでぶつかり合う。毎日夜になると、
お互いが大声を出し合いながら、喧嘩をした。  

こんなことはしたくなかった。
傷つけたくないし、自分勝手なことも十分過ぎるくらい分かっている。
でも、自分が信じた方向に進みたかった。
母親には今までたくさんの恩がある。でもこれだけは譲ることができなかった。




結局、僕は高校にも進路を変更したことも言わず、
母親とも会話をしなくなってしまった。  

僕はとても悲しかった。
なぜ自分の意見を理解してもらえないのか。  
こんなはずじゃなかったのに。。




2ヶ月が経ち、ついに卒業式の日を迎えた。

3年間、本当にいろんなことがあった。
楽しいことや感動することがたくさんあった。でも総合的にみれば、
正直辛いことの方が多かったかも知れない。
でも良くも悪くも、いい経験が出来たし、素晴らしい仲間にも出会うことができた。
皆に感謝するとともに、これだけは言いたい。

ありがとう。




卒業式の日は、仲間と一緒に遊び尽くした。
もうこれからみんな違う道に進んでいく。
これまで毎日のように顔を合わせていた日常が今日で終わる。
もしかしたら、こうやって皆で集まるのも今日で最後かも知れない。

そんなことを思いながら遊び、朝日を浴びながら僕は自宅へと帰っていった。


家に帰ると、家には誰もいなかった。
家族は皆、すでに仕事や学校に行っていた。

僕は思った。
「このまま姿を消せば誰にもバレずに東京に行ける。」
僕はそのまま荷物をダンボールにまとめた。 
まとめ終わると、目の前にはダンボール3つとカバンが2つあった。

これを一人で持って行くのは不可能だ。
どうすればいいんだろうか。

そんなことを考えていると僕は眠たくなってしまいそのまま眠りについた。


目覚めた時には、もう外は暗くなっていた。
家には皆が帰ってきている。 
僕は思った。
「父親にお願いして、こっそりと東京まで送ってもらおう。」

僕はすぐさま父親に東京まで送ってほしいというお願いをし、
2日後に出発することに決まった。



母親とは、もう2ヶ月以上会話をしていない。
僕はこれでいいんだと思った。
僕とまた喧嘩をして傷ついてほしくもないし、僕もそうなるのは嫌だ。
だからこのまま東京に行って、成功した時に連絡すればいい。


そして僕は母親と一切会話しないまま、兄弟と犬に挨拶をして、
父親の車に乗り込み、東京という大都会へと居場所を移した。



車の中では、高校での3年間の思い出がたくさん頭の中に出てきた。
あんなこともあったな、楽しかったな、しんどかったな。 
でもやっぱり最後に出てくるのは、母親への感謝の気持ちだ。

僕が苦しかった時、母親も苦しかっただろう。

僕は毎日朝早く起きなければならなかった。でも母親は僕よりもっと早くに起きて7合のご飯を炊いて、精一杯のおかずを作ってくれた。 ありがとう。

僕が部活に行かなかった。一番最初に謝ったのは、僕ではなく母親だ。ごめんな。

僕の汚したユニフォーム。洗ってくれたのは母親だ。 ありがとう。

僕が試合に出場することが出来た。母親は応援に来てくれた。 ありがとう。

何不自由なく小学生から今まで、大好きな野球をさせてくれた。
本当にありがとう。

僕は勝手に自分の進路を決めて、自分勝手に家を出た。最後は会話もしなくなってしまった。 本当にごめんな。


でも俺は、自分で決めた道を進んだ以上、自分に責任を持って生きていく。
そして必ず、あの時自分の信じた道を進んで良かったね。
と言われるような人間になる。


そんなことを思いながら、僕は一人、東京という街で夢追い人生をスタートさせたのであった。。

終わり。


あとがき

最後まで「僕の壮絶な高校野球人生」を読んで頂き、本当にありがとうございます。
物語はこの記事で終わりですが、次に、「最後に」という記事を投稿します。
そこでは、今の思いや、なぜこの高校生活をシェアしようと思ったのかということ、高校生活で得たもの、今の自分、などを書きますので、ぜひそちらも楽しみにご覧ください!
記事は数日後に投稿しますので、少々お待ちくださいね^ ^

それでは失礼します。 

こばりょう。

https://linktr.ee/ryomakobayashi





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