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移動を控えない。人との接触を避けない。

全ての人間はどんな状況であっても、誰にも奪うことのできない自由を持っている。

「心」だ。

「心」というと少し抽象的な表現になってしまうから、もう少し簡単な表現をするならば、選択の自由というのかもしれない。

愛する人とのデートの日に朝から雨が降っていた。
この自分の目の前で起きていることに対して、
雨が降ってラッキーだったのか、アンラッキーだったのかを選ぶのは自分の心だ。
だから、人生で起こる出来事に対してどう自分が反応するかは
自由に選ぶことができるし、それは、「心」が自分の全てであることを意味する。

僕はそんな自分の心を常に俯瞰的に見るクセがある。
何をやっていても自分の心からフォーカスを外すことができないから、
我を忘れて、、、ということを経験したのは、タイで野良犬5匹に
追いかけられたときの1回だけかもしれない。
ふと、そんなふうに思ったとき、鼓動が少し速くなるのを感じた。


高校生の頃に初めてバイクに乗ったとき、その速さとただアクセルを捻るだけの楽さで、僕は「これでどこまでも行ける」と思った。
今まで自転車でしか移動ができなかった僕は、足の疲労と時間的な問題で、
行ける場所に限界があった。そんな僕の限界を超えてくれたのがバイクだった。そんなバイクに初めて乗ったときも、やっぱり僕は自分の心を見ていた。だからこそ、そのとき自分の心はどう思ったのかを今でも鮮明に覚えていて、その感覚とさっき鼓動が速くなった瞬間は同じ感覚だった。

この二つの共通点は何なのだろうかと、家の屋上から見える中目黒のタワーマンションをじっと見ながら考えた。
少し怖さがあるけれど、何かその先にものすごい可能性を感じるような感覚。
この感覚のイコールは、僕の中では「旅」だ。

初めてバイクに乗って行ったことがない街に行ったとき、
タイで野良犬に追いかけ回されたとき、
バンクーバーで雪の降るなか、迷子になったとき、
ビバリーヒルズの路上で車中泊をしたとき、 

そんな経験達が、僕の鼓動を速くさせる。 
言い換えると「ワクワク」している。 

思い返せば、小さい頃から好きなことは変わっていない。
時間があればどこかへ行き、迷子になって帰れなくなったときは
なぜかワクワクしていた。電車の乗り換えを覚え、新幹線の乗り方を覚え、
夜行バスの乗り方を覚え、飛行機の乗り方を覚え、年を重ねるごとに僕は自分の限界範囲を超えていった。そして移動を超えて移住になった。

人生の四半世紀を迎えた今年、そんな僕にカメラという新しいギフトがやってきた。

「今までのワクワクをカメラとともにする。」

これが今までのワクワクを越える次のステップだと思う。
移動や人との接触を避けるようにと政府が呼びかけるようになった今、
インターネットでは、たくさんの「次の時代の生き方」のような記事が出ている。生活しているとそんな情報に触れる機会がたくさんあり、その度に、
心が反応し、次の時代の為の生き方を考えてしまう。
考えなくてはならないのは当たり前だけど、人々の不安を煽るような情報に振り回されたくないという気持ちにもなる。
たくさんの情報の中で、何が正しく、何が正しくないか、そして、その情報からどういう結論を出すのかは、自分次第だが、今の段階で賢くもない自分が賢い結論を出すことは不可能に近いと思っている。
だから僕は、自分の心に聞くことにした。心はどんな状況であっても自由だ。何を選び、どう感じるのかも選ぶことができる。

だからこそ、僕はこれから旅に出る準備をしていきたいと思う。
移動が出来なくなってしまう世の中になれば、それはそうなったときに考えることにする。
でもまだ旅をするという選択ができるのであれば、僕はそれを選びたい。
移動し、まだ見たことないものを見たい。出会ったことのない面白い人に会ってみたい。そして写真を撮り、映像を撮りたい。

心は常に話しかけてくる。
どんな状況でも、やりたいこと、好きなこと、夢、理想は、
少し心に聞けばふんわりと浮かんでくる。でもたとえ浮かんだとしても、
現実にある様々な問題が障害となり、見えたものを見えなかったものと捉え、それが「やりたいことが分からない」という状況に追い込んでしまうのだと思う。小さい頃はやりたいことが分からないなんていう概念自体がなかった気がするし、子供を見ててキラキラしてるなと思うのは、やっぱりやりたいことを本気でやっているからだと思う。 

少し歳を重ね、いわゆる大人という存在になると、なぜ子供のようにやりたいことを本気で出来なくなってしまうのだろうか。
子供はなぜやりたいことを本気で出来ているのだろうか。 
それは、子供はやりたいことを本気でやることが親の為、家族の為、そして先生の為になっているからだと僕は思う。

僕は少し前まで、好きなことだけやっていればいいの意味をちゃんと理解していなかった。好きなことをすることも好きじゃないことをすることも、
それが誰かのためになるからこそ、それをやり続けることができる。
自分の人生が、誰かのありがとうになること。
これが生きるということなのではないかと最近思い始めるようになった。
何をしてもいい。でもそれが誰かの為になるかをまず考えるべきだと、
僕は自分に言い聞かせることにした。
だから旅に出たいのであれば、その旅が誰かのためになるように考えるべきだと思うし、それが僕の旅をより一層素晴らしいものにすると思っている。

小学生の頃からの僕の旅は、自分の為にやっていた。
自分が行きたい場所に行き、見たいものを見て、自分の中で完結させていた。その経験を誰かに話すことができるから、全く誰のためにもなっていないわけではないけれど、僕は自分の人生を考えたときに、もっと誰かのためになる移動をしたいと思った。

インターネットやLCCなどの格安航空券がある現代で、未だ誰も行ったことのない場所に行くことはもしかしたら不可能なのかもしれないけど、
僕は、僕が行ける場所に行き、世界にたった一人だけの存在である僕だけの表現を使って誰かのためになる。そんな旅をこれから実現させていきたいと思っている。

移動を避け、人との接触をできるだけ控えることが常識になる時代になっていくかもしれない。
でも僕は、移動するという選択肢がある間は、心が求める移動をし続けていきたいし、もしかするとそんな常識になった後の世界ほど、移動ができることの価値があがるのかもしれないと、僕は密かに思っている。


Ryoma Kobayashi

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