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胸の支えと寂しさと。

どこか人生に冷めている。

一人でいることにも慣れ
家族でいることにも慣れ
人に裏切られることにも慣れ
それらを諦めることにも慣れた。

どんなに感情的になっても
いつかは消えていく。
泡のように。

ありがたく感じるときもあれば
見越して本気にならないように
誰といても
何が起きても
距離を置くようになった。

自立というのと
諦めて孤独にいるのとは
全然違うことだ。

結果どうあれ
向かい合おうと
本気で立ち上がることは
そうそうできるものではない。

いつからか
そう言うことにも
諦めを見つけていたんだと思う。


でも一瞬でも
胸の支えが取れ
緩んだ自分を見つけたら
忘れられない。

そんな感覚は
人生の中で一度もないようなもので。
親にだって奥底の感情には
理解し得ないだろう部分があるのだから。

話せば話すほど分かり合えなくて
どんどん話して疲れて頭の痛くなる出来事は
いつだって溢れている。

だからこそ
分かり合えないもどかしさの穴はどこにもあって
寂しさという名前をつけるのが妥当だと感じる。

だから十中八九
寂しさはそこにある。

どれだけ話しても
どれだけ尽くしても
どれだけ思っても
報われないと言う寂しさがある。

この寂しさをどうしたらいいか
何度も繰り返すうちに気が付く。

寂しさはどうしてもついて回るものだということ。

誰のせいでも
どんな出来事のせいでも
もちろん自分のせいでもない。
報われない寂しさが降ってくるのが人間だ。

それを認めて
一歩踏み出した人に出会うと
心が緩む。
踏ん張っていた心が弛む。

寂しさはあるんだと
そこにあるんだと
認めた人の一歩は
柔らかくもあり
ゆっくりであるけれど
重く深い一歩だ。

それが伝わってくる時
私たちの心の支えは
緩んでいく。

一人じゃない。

そう感じることができる。

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