シン・ゴジラから5年

7/29は『シン・ゴジラ』公開5周年だったのか。これは公開初日初回上映を観た直後の感想。

「こんなこと書いて大丈夫かな」と少しは思いながら書いたが、いまや現実のほうがその正体を現し堕した結果としてブラックコメディへと化してしまった。

以下の文章は、『シン・ゴジラ』を観る直前にほとんど情報のないまま期待と不安が半々ながら書いた覚書。



GODZILLA
『ズートピア』観た際に頭をよぎったことではあるのだけれど、アメリカ映画と現在の日本作品のあいだにある彼我の圧倒的な差が、もし「予算(市場規模)」「製作/制作システム」以外にあるのなら、それはPCやジェンダーやライツへの理解度やポップカルチャーの成熟度といったピンポイントに指摘できる面だけでなく、実のところ《寓話が寓話として存在しにくい状況》ということではなかったか。

高畑勲作品や宮崎駿作品が海外で受け入れられる余地があるのは、それが一貫して《高度に政治的な寓話》として優れた成立をしてるからなのではなかろうか。

ここらへん、まだうまく言葉にできないのですが、以下に、読んでいてハッとさせられた文章を引用します。

〝ぼくは3・11の後、海外のまんがやアニメーションの研究者から日本人はそれこそ『ヤマト』を始めとして、繰り返し「核の寓話」を描きながら、しかし、3・11を起こし、その対応に混乱する姿がどうにも理解できない、と言われた。日本のサブカルチャーは確かに何かの寓話であり続けたけれど、しかしそれを寓話として受けとめる足場を多分、ぼくたちは失い、日本は「寓話」が機能不全を起こした時代を生きてるんだ〟
(大塚英志『二階の住人とその時代 転換期のサブカルチャー私史』, 星海社, 2016, p127)

と、ここまでは少し長い前置きで。シン・ゴジラ』の作品成立にあたって、そこに東日本大震災や福島第一原発の事故を見出す人も多いとは思うのですが、むしろポスターにあるキャッチコピー《現実(ニッポン)対 虚構(ゴジラ)》が指し示すように、虚構=フィクションの力についての再確認の意味合いが強いのではないかなあ、と想像しています。もっというと寓話の力をどこまで信じられるか?という問いかけなのではないかとも思うのです(80年代以降日本のエンターテイメント作品で最も寓話として成立したのは『新世紀エヴァンゲリオン』ではなかったかとぼくは考えています)。

と、いうのも1999年に映画『ガメラ3 邪神覚醒』のメイキングドキュメンタリーとして庵野秀明さんが総監督を担当した作品『GAMERA1999』にはこんなテロップが登場していたからです。

だが、
虚構と、現実、そして

は、続く

(2016年7月24日 記)

このあとに「シン・エヴァ」が、ここでの「現実vs虚構」のその先── 「物語内にあった実存」シンジが「虚構に囚われていた現実」マリを外に連れ出して一緒に並んで〈虚構と現実を等しく想像できる唯一の存在〉として二人で駆け出していったことを思うと、この覚書は悪くない、むしろなかなか良い。

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