「火垂るの墓」という映画を子供におすすめしない理由

「火垂るの墓」という映画。子供の頃から数えて何度か観たけどつらい映画だった。幼子が弱って死ぬ、ひたすらにしんどくなる映画。戦争の悲惨さを伝えるために子供に観せることも多いかもしれない。でも、ちょっと待って。

オタクジャンルの研究で有名な岡田斗司夫氏は「火垂るの墓」の解説動画を去年YouTubeにあげていて、前半部分だけは誰でも観れる。(岡田斗司夫ゼミ「本当は10倍怖い『火垂るの墓』」)全部観る場合はAmazonビデオにもあって有料である。私は前半をYouTubeで観て、あまりに気になり、お金を出して全部を観たんだけど、本当にぶっ飛んだ。と同時に自分の「もう観たくない」気持ちの正体が、ただ悲しい、かわいそう、だけじゃなかった理由がよくわかった。監督が本当に描きたかったのは戦争の残酷さ・・・ではなく、人間が持つ内面の残酷さと悲しさだった。

戦争の残酷さを描くならば、「なすすべなく戦争に翻弄される姿」を描くだろう。そんな描写もあるけどそこは中心じゃない。それを中心にするなら、それは幼子を残して死ぬ清太たちの母の立場なんじゃないかと思う。でも、そうはしなかった。そして、清太は「なすすべなく戦争に翻弄された」ように見えて、実は「なすすべなく」ではなかった。だって、清太には裕福だった親(父が海軍将校、清太はピアノも弾けるお坊っちゃん)が残してくれた貯金7000円(現在に換算するとスーパーインフレ下を考慮しても380万円)があり、清太自身はまだ健康で、親戚もいた。実際にはもっともっと悲惨な状況にある子供がいただろうことは想像に難くない。生きようと思えばなんとかなったのではないかということだ。だから戦争の残酷さが一番のテーマではない。高畑監督も「お涙ちょうだいの映画ではない」と断言している。

結論を言うと、清太と節子の死は、誰に殺されたわけでもない「心中」だった。心中、つまり自殺だ。自ら「死」を選んだということ。自分で進む道を決めてそうすることが人生ならば、清太はそれをやり遂げて、清太にとってはそれが「本望」だったことになる。この映画は「自殺をした人の姿、それが本望であった人の姿」を描いたものだった。しかし観ているほとんどの人はそんな本望を受け入れられる訳がなく、結果、違和感と拒否感が残る。多分私が感じていた「悲しい、かわいそう」以外の形容しがたい暗い気持ちはこれだと思う。

清太と節子はそういう道を選んだ人で、(節子はあまりに幼いので、選んだというより、それ以外に知らなかったのだろう)それが「本望」だったんだけど、作品としてそれだけの描写で終わることはできない。自殺というのは誰がみても、宗教的にみても間違った道だ。なので、清太と節子の霊は天国には行けず、いまだ神戸に残されていることになっている。その描写が誰もがほとんど覚えていない(私も覚えてなかった)ラストシーンに繋がる。ラストシーンは小高い丘の上のベンチに座った清太と節子が、きらきらとした「現代の」神戸の夜景を見下ろしている姿である。岡田氏はこれを「煉獄」に閉じ込められた二人の霊だと説明している。煉獄とは、カトリックの言葉で、天国と地獄との間にある場所のこと。死者の霊が天国に行く前にそこで火によって浄化されるんだそうだ。清太と節子はまだまだ浄化されておらず、現代になっても天国には至っていないことがこのシーンから読み取れる。それに、もしも天国ならば、そこには優しかった両親がいるはずで、その描写がないことからも、二人だけがそこに閉じ込められていることがわかる。

清太と節子の姿は現代にも通じる。自ら生きることをやめて破滅を選ぶ人。戦後を経てずっと豊かになった今でも自殺はなくなってない。貧しさがきっかけで死ぬ人もいる。本当は手段があるけど、その手段をどうしても使えない人、使わない人がいる。この映画は、そんな何かのきっかけで壊れ、破滅に向かう人間の心理とか、その破滅の瞬間をなぜか美しいと思う人間の不条理(この象徴が「火垂る」だろう・・・けども!なんて高度な人間描写なの!!)といった表現者ならいつか描きたいと思う人間の内の内の表現で、100年経っても観る人にそれを問う、文学性の高い内容・・・なのだそうだ。

・・・こりゃわからんわ。わかるかよ!!!(逆ギレ)

余談だけど・・・二人が破滅に向かうポイントはあちこちに描かれていて、わかりやすいシーンはこれだと思う。防空壕で暮らし始めて、清太が食べ物を手に入れるために外に出ようとすると、節子は「おにいちゃん、いかんといて」と止める。生きる道を選ぶなら清太はそれを振り切って出て行かねばならなかった。節子対策を考えて自分が動けるように努力するべきだった。でもしなかった。で、このあたりのシーンがマンガ「風と木の詩」のラストあたりに似てると、ふと思ったんだよね。余談すぎるけど、風木を知っている人も知らない人も続きをどうぞ。(「風木」ネタバレもあるので注意)少年であるジルベールとセルジュは困難な自分たちを縛る世界から逃げ、二人きりで暮らし始める。当然生きるために働かないといけないんだけど、ジルベールは働こうとせず(実際は働くけどすぐ失敗)それどころか、セルジュにずっとかまっていて欲しいとせがむ。働かなきゃ、でもジルベールもほっとけない・・・セルジュはその狭間でだんだん壊れそうになっていく。結果、風木の場合はジルベールだけが破滅し、セルジュはそれを乗り越えて前に進む。もしもセルジュがジルベールと共に破滅の道に進んだとしたら、かなりのトラウマを多くの読者に残しただろう。あの「風木」でさえセルジュを生かし希望を残したのに、火垂るの墓はそんな希望をひとかけらも残さなかった。さすがバケモノ、高畑監督。(岡田氏は宮崎監督を「天才」、高畑監督を「バケモノ」と呼んでいる)

しかし、まあ、いろいろそんなことを考えると、とても見方の変わる映画で、岡田氏いわく「泣いて思考停止している場合ではない映画」なのもうなずける。でも、その本質を知ってしまうと、子供に気軽に見せる映画じゃないんじゃないかな、なんて思ってしまう。戦争シーン、死体のシーンが単純に恐怖を与えるっていうんじゃなく、大人でもあまり見たくはない人間の心の深淵を見せてる訳だから、情緒の安定していない子供はダメージ受ける気がする。もちろんこれは私の見解で、子供は子供なりに受け取れる部分のみ受け取るかもしれないし、ダメージを受けるのも体験のひとつかもしれない。鋭い子ならその本質まで見抜かないまでも、何か気づくかもしれないし・・・いや、実は気づいている子供もかなりいたのではないか。私が岡田氏の解説にとても納得がいったのもそのせいだ。また、戦争がこの物語の発端であったことは間違いないし、反戦の映画ととらえることは間違いではない。いろんな側面から観ることができるのは映画に限らず表現が持つ自由だし、まあ、それもありか・・・って、あれ?結局どっちつかずになっちゃった。すみません(笑)でも、少なくとも「風と木の詩」よりもトラウマレベルが高い作品だというのは知っておいてほしいかなと思う。

岡田氏の解説動画はこちら。(前半のみで、結論まではないですが十分興味深い)


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