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旅情奪回 第六回: 45歳の地図。

 旅行好きの読者諸氏相手にこう訊くのは愚問であろうが、「最近地図、見てますか?」。たとえば、旅先の観光スポットや話題のカフェ情報を調べたり、限られた時間の中で効率よく旅を満喫するための、いわばガイドブック的な地図ならば、頻繁に目を通し、あるいは実際に旅に携行しているに違いない。しかし、あの世界地図、ならばどうであろうか。遠い記憶を辿って、学校の教室や塾の壁に貼ってあったような、あの世界地図である。
 地図の歴史は古く、当コラムの第一回でも触れた通り、古代ローマ時代には、後に続く旅人のためにコップなどに地図らしきものを刻んだという記録があるそうだが、地図が、それまで単に旅の安全を確保し道程を示す、機能性に特化した情報媒体であったのが、莫大な財を生む、文字通り“宝の地図”、に変じたのは、航海術が円熟し、西欧諸国の目が世界に向いた大航海時代であったろう。当時、命を賭してまで世界を旅した冒険家たちの残した地図は、現代の視点で観ると愉快に歪で興味深い。そもそも地図は面白いのである。
 私自身について言えば、比較的幼少のころから世界地図を目にするチャンスが多かったと思うが、四辺が揉みくちゃになって色褪せて黄ばんだ、いかにもありがたそうな地図に思わずロマンを感じてしまうのはきっと、小学生の時に観た『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年)で、主人公たちが謎と宝を追って移動する展開に合わせて、飛行機や矢印のイラストが地図の上を移動していく、シリーズお決まりのシーンに胸躍らせたからだ。
 話を戻そう。いま、この年齢になってあらためてじっくりと世界地図を眺めると、世界地図に抱いていた、驚きはないが予想も裏切らない、杓子定規なはずの印象と随分と違うことに気がつく。逆に、一定の期間中に自分が経験したこと、考えてきたこと、心象や情報を反映したきわめて流動的で可変的なマインドマップと、目の前にある、図像としての世界地図が、かなり精確に重なっていることに気づくのである。世界地図自体が大きく変わってしまったのでは、当然ない。しかし旅した国や、友がいる国。あるいは、縁あって身近になった国などは、地図においてもそれらの国がグンとズームアップされるのである。そうしてできあがってゆく私の中の世界地図は、知らぬ間に日々更新されているのである。45歳には45歳なりの地図ができあがる、というわけだ。
 図版資料としての地図は、測量的にも正確である必要があるが、心で描く地図は、いかようにもアレンジが可能なのだ。自分の心の中の地図の変化に呼応して、世界地図が、世界が私にとってどう変わるか。未来の私の世界地図が、楽しみである。(了)
*(20191115執筆)

旅情奪回-6(改)


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