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壊れた世界、壊れゆく世界

今朝は9時から市民清掃。

休日は(いや、最近は妻がそっとしておいてくれるので平日でも)昼前まで寝ているし、こんな早い(!)時間に外を歩くことなんてない。
だから、こんな早い(!)時間に外を歩いている人がいることに、そしてそれが電車に乗ってどこかに出かけようとしていることに、めまいにも似た軽いショックを受ける。
さすが都会だし、なんだかみんな、すごいなあって。

どうせ集まらないし、行ってもおじいちゃんおばあちゃんばかりだし、という予想にたがわず僕ひとりだけ若者(!)。しかしこのご近所さんたちはみんな背筋がしゃんとしていて年齢を感じさせない。そして予想にたがわず、集まったのは僕を入れて五人。

駅向こうのスーパーの隣にある公園の草むしりとゴミ掃除。

まあね。
生活圏と担当地区が違うから、僕らが掃除をしている脇を知らぬ顔で通り過ぎていく人たちがいるからといって、目くじら立てるほどのものではない。

ただ、そうは言っても市民清掃。だから、この通り過ぎていく人たちは担当の場所の掃除をなかったことにして自分の都合を優先できる人たちなんだな、という想像は止められない。

僕は田舎育ちで、だから市民清掃っていうものは、こどもも総出で川沿いの草むしりをする、そんなイベントだった。(清掃が終わった後、ジュースを一本もらう。うれしい。だって、小・中学で掃除の時間にする片付けは無償奉仕だったからね)
それが当たり前だったんだけれど、さすが都会は違う。
(でも、その田舎も、小学生がいないそうだ。地元に残っている僕の同い年は、独り身ばかりだと母から聞く。それらの親はだんだん身罷っていて、それらが家長になっているそうだけれど、つまりもう、地域ごと断絶の危機ということだ)

僕は、最近になって強くおもう。
世界は壊れてしまったんだなあって。

住んで、暮らしている場所なんだから、
ご近所さんの顔くらいは知っていていいし、
挨拶するくらいはあっていいし、
ご近所みんなで使っている場所なんだから、
それぞれちょっとずつ負担してきれいにするくらいあっていい。

でも、いまはそういうのは、流行らない。

住んでいる場所と、仕事をする場所は遠く離れている。(僕の場合、通勤片道1時間半。もうそろそろ日々3時間を捨てる日常に戻らなきゃならない)

仕事が地域から切り離され、
住居はかろうじて食べ休むだけの穴ぐら。
住民税だけ納め、知らない「誰か」にメンテナンスを丸投げして維持されている日常。

自分できれいにしないから、そういう「仕事」がどれだけ大変か、想像が及ばない。それどころか「お金」を払っているのに「この体たらくか!」と騒ぎかねない。

職場でもそう。
縦割り専門化が進みすぎたせいで、隣で何がなされているかわからない。
技術・人事・営業・経理。それぞれお互いの仕事がわからず、自分の業務に忙殺され、ゆとりも思いやりも無くなり、協力してもらえない! 無駄な仕事を増やす! などと怒りの目を向ける。

お金でいろいろなものが買えるようになった。
食事や清掃、介護、果ては遺品整理まで全部お金で解決できるようになった。
というより、諸々に手も足も出なくなってお金で解決する以外なくなってきている、気がする。
頼むためにはお金が必要で、でも足りなくて、だからせめてと稼げる専門性に沈みこみ、分断はより深刻に進行する。

専門性と言いながら、ダンピングの嵐により、ますます稼げなくなる。労働はコモディティと化した。代わりはいくらでもいる様の論調はますます盛ん。低賃金でもこの稼ぎを手放したら生きていけないと信じ込み、ますますダンピングが進む。

誇りもなにも、ない。

稼いだ日銭は、自分の尻を拭く人の手を借りるために全て消える。

ゆとりはなく、
互いに疑いの目を向け、
ささくれ、
苛立ち、
何処かで聞こえる舌打ちに身をすくめ、あるいは罵り声をあげ、
壁を殴り、
蹴り飛ばし。

デストピア。

自分の不能に、
光が見えない袋小路に、
不安に、
打ちひしがれる毎日。

解毒薬

と、まあ、こういう暗いことばかり考えているのは体に悪い。
上を書いた後でツイッターを眺めていたら、以下のツイートが流れてきた。

「できる人」が素晴らしいのは「できること」であって、それが楽しそうであるいは素敵でカッコよくて、「僕でもできそう!」と錯覚させてくれることだとおもう。

そうやって始めてみて、そのうちいくつかできることが増える。そうやって、できる人が増えていけば、世界はちょっとずつ素敵なものにも変わっていく。
そうであってほしい。

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