人の心はどうにも難しい。自分の心もまた
10月20日日曜日、晴れ(?)
昨日の疲れがでたのか、ゆううつな気持ちが抜けない1日だった。
できるだけ過去形を使わない縛りをかけて(※その理由は思いだせない)書いているこの日記だけれど、前文の「1日だった」は過去形を使わないと書けない気がする。1日である──そう書くと「これから始まる」(=まだ終わっていない)日のことを書いている感じになるよね?
いや、そうとも限らないかもしれない。どうだろう。
昨日の疲れがでたのか、ゆううつな気持ちが抜けない1日である。
んー、いいとも悪いともわからない。少なくとも僕の好みには合わない、ような気がする。
もとい。
* * *
たぶん人疲れしたんだろう。ネガティブがもたげた頭に蹴っつまずいて見事なまでに気持ちがすっ転んだ。(それでもツイッターに「ゆううつだ〜」とか書かずにおけたのは我ながらよく我慢した。えらい)
話はここで再びそれる。
好きなことを好きなように垂れ流せばいいじゃない? という気持ちでツイッターを使っていた。暴力的なことばもあけすけに流していた、とおもう。
けれど、ここ1〜2年くらいだろうか? あれも僕の社会的な一面だという気持ちが強まり、ごくごく私的な内面を吐露することが難しくなった。(思いかえせばその気持ちの強まりは、僕のツイッターをこどもらが見ることができるという事実に後押しされたのだと理解できる)
* * *
昼の食事をどうするか、というので妻ともめる。
せめて休みくらいは、家族のそれからの行動を頭において(そのためにカレンダーにも予定を入れてくれている)、昼の食事をどうするかだとか話をしてほしい、というのだ。
たしかに僕は気にしていない。妻のため息やら苛立ちやらを合図に「作ろうか?」と申し出ることがある──という感じだ。
空腹を訴えられてから「どうしようかなあ?」と考えるようだと、それは親としてどうなのか、という話だ。(訴えられなければ食事をつくらない? それはあまりにも拙かろう)
そしてそうならないよう予防線を張るのが妻だけというのは、夫としてどうなのか、という話。
妻の言う「食事をどうするのか、時間にあわせて話をしてほしい」とは、それを考えるのが自分一人ではなく、同じことを気にしている仲間がいてほしいということで──そりゃあ今までしんどかっただろうなあ。
人と暮らすということは、まあそういうことだ。自分のためだけに、自分の都合だけで時間を使い尽くしてはいけない。いったい何年、妻と暮らし、こどもらと生きてきたんだろうかねえ……。
これからはちゃんと話をすると約束して、ざっと4人分チャーハンをつくる。先日のホットケーキとは違い、チャーハンはさっと作れるのでありがたい。
* * *
クローゼットのアコーディオンドアを外してほしいと、こどもから二度目の訴えがくる。外しかたもわからないまま請けあったのは、いま思いかえすと拙かった。
また外したあとのドアをどこに置くかを、ちゃんと調整しなかったのも拙かった。(以前に聞かれたときに、自分の部屋に置きたくないことだけは無言の不機嫌で了解していたというのに)
もろもろの問題が関係をややこしくしたけれど、妻の助けもあって一時間半ばかり格闘して片面を外し、外したドアを天袋に押し込むことに成功。続きは──明後日、かねえ……?
自分の望む結果が得られないときに押し黙ってしまうのを、なんとかするよう伝えたい。
どこか気に入らないのだろうというのは沈黙からわかる。それを汲んで周りの人間が問題の解決をあれこれ図ってくれると期待するのは間違っている。
もしくは思ったとおりにならないことで乱れた自分の気持ちをまとめているのだとして、その場にいる全員の時間を沈黙で奪ってよいということにならない。
ひょっとすると、これらとは違う理由なのかもしれない。
いずれにしても黙ってしまわれると、困るのだ。
あるいは黙ってしまったら、「じゃあ考えがまとまったら声をかけて」と軽く突き放すのがいいのかもしれない。(ただ、そうすると残していった部屋から「わーー!!」という叫び声と怒りをものにぶつける音がしそうで、嫌だなあ……という気持ちがある。実際にどうなるかはわからない)
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