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敵味方の心理を読んだ信長の行動の面白さと、新説に面白いと柔軟な先生の話が聴けた幸せな一日

こんにちは、両兵衛です。

先日、Aichi Sky Expo(あいち国際展示場)で行われた「にっぽん城まつり」へ行ってきました。小和田哲男先生、千田嘉博先生、俳優の高橋英樹さんによる記念シンポジウムのお話を聴くためです。

なかでも小和田先生は戦国時代研究の第一人者としてNHKの番組に数多く出演され、戦国時代を扱った大河ドラマでも「秀吉」から「麒麟がくる」まで7作の時代考証をされています。

私は子どもころから小和田先生の著書を読んで戦国好きの沼にハマったので、先生のお話を直接聴いてみたいとずっと思っていました。今回その機会が得られて、泣きそうなくらい感慨深いものがありました。

今回は「にっぽん城まつり」ということで、3人でのトーク前に30分ほど小和田先生がお城をテーマにした講演をされました。その中で信長による清須城から小牧山城移転の話題があり、先日このnoteで取り上げた「信長公記」に出てくる話が取り上げられました。

どんな話かというと、信長が最初は不便な二宮山に移転すると言い出すんですね。すると家臣たちが不満を漏らしはじめます。そこで信長が本来移転したかった小牧山へ方針転換を表明することで、みんな二宮山よりましだとスムーズに移転が進んだという話です。

「信長公記」には、この話の冒頭に「一、上総介信長、奇特なる御巧みこれあり」という記述があります。小和田先生は従来この『奇特なる御巧み』とは、先に挙げた信長による移転エピソードの話のことだと解釈していたそうです。

しかし、小牧山城の発掘調査を長年されている小牧市教育委員会の小野友記子さんが面白い説を挙げられたと教えてくださいました。

信長は、美濃の稲葉山城(後の岐阜城)を攻め落とすことを目標としていました。そのために大垣を経由した西美濃ルートで攻め続けていたのですが、なかなかうまくいきません。そこで、小牧山、犬山から木曽川を渡る東美濃ルートへ方針転換を図るというもの。二宮山も犬山の東にあるためルートに一致します。

これにより、今まで西美濃での戦いの後詰(応援)として動員されていた東美濃地域の国衆たちが、信長の居城移転によっていきなり前線となるわけでかなりの動揺を誘ったのではないか。結果としてこの方針転換により、稲葉山城は信長により攻略されるため、この方針転換こそが信長による『奇特なる御巧み』ではないかという説です。

今まで西美濃へ応援で戦に行けばいいやと思っていた東美濃の人たちが、信長が小牧山城に移ることでいきなり自分たちが前線になる。先の逸話は家臣たちの心理を読んだ話でしたが、その大枠として移転自体が敵側の心理をも読んだ信長の行動だと考えるととても面白いです。

小和田先生は私の父親より一つ年上で、何十年と戦国時代の研究をされてきています。信長の『奇特なる御巧み』はもちろんさすがなのですが、新しい説に対して面白いと言われる柔軟さを持ち合わせている先生もさすがだなと思って帰ってきました。


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