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我慢って堪えるだけじゃない。

「我慢」って時にはしないといけないと思う。

環境が整っていない時。
力が備わっていない時。
自分の方が気持ちをコントロール出来るとき。
自分の方が悪いとわかっている時。

などなど。

我慢は美徳として捉えられる風潮が昔からあった気がする。
「昔」とか言っておきながら、20年ちょっとしか生きていない若輩者ではあるが。

他人の気持ちを慮って、「自分はいいや」と気持ちに蓋をする。かくいう私自身もそうだった。それが美徳、までは思っていなかったが「それでいい」と思っていた。

この「我慢」って、私が勝手に名付けるに”消極的我慢”だ。
耐え忍ぶスタイル、といった方がわかりやすいか。
とりあえず嵐が去ってくれ、、、、と願うスタイルといった方がわかりやすいか。ただこのスタイルって我慢すればするほど、蓋が開かなくなってしまう。蓋の開け方がわからなくなってしまう。自分の欲がわからなくなってしまうのだ。私も結局それに陥った。

大学生の途中から、就活をしているうちに

「このままじゃいけない」

だって自分が自分のことをわからないんだから。だから欲の「解放」練習が始まった。このnoteだってその1つだ。

私はそんな風に変わっていったんだけど、世間の風潮的にも少しずつ潮目が変わってきた。というのも、誰もが発信できる時代になったのが影響しているかもしれない。

自分の感情を、ありのまま発信する。それが多くの人の目に触れる。反応を得られる。そこの良し悪しはあるが、かつて堪えていた思いを吐き出す人も増えてきたんじゃないか、と勝手に思っている。


発言の質はあれど、溜め込まずに発信できる環境があるのってすごくいいことだなと個人的には考える。”消極的我慢”はあまりおすすめしない。

「じゃあ我慢は悪か?」という問いが生まれるだろう。
これに対しては、「必ずしも悪ではない。むしろ必要なときもある」と答えたい。

意見が行ったり来たりしてるみたいでごめんなさい(笑)

ただここで考える「我慢」は、ここまでで話してきた”消極的我慢”ではなくて、”積極的我慢”であって。じゃあ積極的我慢ってなんなん、となったときにタイトルにつながってくる。


我慢って堪えるだけじゃないと思うんだ。
我慢ってじっとしているだけじゃないと思うんだ。

何か自分の掲げる目標だったり、理想だったりの実現に向けて決断をすることがあると思っていて。その決断した行動を『継続』することも我慢の1つだと思っていて。

結果が出るまで継続する。
それは何も堪えているわけじゃない。しっかりと進んでいる。進んだうえでの我慢、ゆえに”積極的我慢”だ。


個人が発信できる時代になって、”消極的我慢”が減った気がすると書いたが、それと同様にこの”積極的我慢”の機会も減ってきた気がしている。

というのも、いつでも調べられるようになったから

すぐに誰かの「答え」が手に入る時代だからこそ、効率ばかりを求めてしまう。すぐに結果が出ないものは「ダメなもの」と認定されてしまう。それはよくないよね、っていう話。

あなたが調べ上げた「答え」だって、1日や2日にして生みだされたものじゃない。その背景には何十日、何百日、何年の努力が積み重なってある。それが1日2日ネットで調べた人が見て、行動して結果につながるなら誰も苦労しない。

「答え」が悪いわけじゃない。
「答え」があなたにとっても答えであるとは限らない、ということをわかっていないといけない。時間を掛けて継続して取り組んで、少しずつ形を変えて自分に合う、自分だけの答えをつくっていく。大事なのはそれじゃないだろうか。

で、そのために必要なのが”積極的我慢”だと考える。

だから我慢は堪えるだけじゃない。


消極的我慢と積極的我慢。
完全自分の造語ではあるが、今後も使い分けは意識したいところだ。

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