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「大丈夫」はこだまする。

「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと「もう遊ばない」っていう。

そして、あとでさみしくなって、

「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、いいえ、誰でも。



聞いたことがある、という人の方が多いのではないだろうか。

国語の教科書で、CMで。

ACジャパンのCMで流れていた、金子みすゞさんの「こだまでしょうか」という詩だ。

たった一言で、人は傷つき、たった一言で、人は微笑む。

自分がやさしく話しかければ、きっと相手も、おだやかに答えを返してくれる。だけどきつく返されるとなんだか嫌な気持ちになる。

ことばは、人から人へ『こだま』する。

良くも、悪くも。




突然この詩を取り上げたのは、「大丈夫」という言葉についてふと考えたからだ。

「大丈夫ですか?」

私たちは当たり前のようにこの言葉を使う。

別にそこに深い意味はなくて、ただ単純に心配しているから使うんだけど、「大丈夫ですか?」と聞かれると「大丈夫です」と反射的に答えてしまう気がする。

本当に大丈夫なときもあれば、心の中では「大丈夫じゃないからこういう状態になっているんでしょ」と思いながらも説明するのが面倒だから”大丈夫”と言っていることもあるんじゃないだろうか。

でも深く介入しすぎていいのか。相手の心に土足で踏み込んで、良かれと思った行動でむしろ傷つけてしまっていないだろうか、と考えてしまう。

かといって後者を気にしすぎて何も言わないでいると、それはそれで「冷たい人」というレッテルが貼られる。


じゃあどうすればいんだろう?

なんて声をかけてあげるのが正解なんだろう?

興味がないわけじゃない。むしろ心配している。
だけど知らず知らずのうちに傷つけたくもない。
だから何もしゃべれない。それによって結果相手を傷つける。

そんな負のループ。



正直、考えに考えたけど、めちゃくちゃいいアイデアは出なかった。

むしろ上手い技術とか巧みな言葉遣いとかはきっと出来なくて、それは経験の中で感覚で身につけていくものな気がして。

じゃあ今から出来ることって、「正直でいること」なのかもしれない。


わからないことはわからないと言う。そのうえで知りたい、一緒に考えたいという思いを伝える。

変にわかったつもりで自分を繕って、抽象的な言葉に逃げてしまうと相手との間で課題の認識のズレが生じる。

ズレが生まれたまま話が進んでいくと、それはお互いにとってよくない。


わからないことはわからないと言う。

そしてまずは同じ土俵に立つ。同じ方向を見る。

そのうえで話を進めていく。まずは相手を理解したい旨を伝える。

そうすればきっと「大丈夫」はこだましない。こだましたとしてもそれきっと意味ある、言語化された「大丈夫」だ。



「大丈夫」という言葉の議論は難しい。

だって別に悪い言葉じゃないから。ちゃんと素敵な言葉だから。

相手を勇気づける側面もあるし、相手を心配する側面もある。だからこそついつい多用してしまう。

多用することは悪くないんだけど、その「大丈夫」に意味をもたせたい。自分の勇気づけの言葉が、心配を込めての言葉が誤解されて相手に伝わらないためにも。



今日もきっと私は「大丈夫」を使った。
明日も使うかもしれない。

「大丈夫!」も「大丈夫?」も。

そこに意味はあるんか?その言葉選びで間違っていないか?

一見「無駄」なのかもしれないけど、それが無駄だとしても真剣に考えていきたい。

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