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祖父の日記(サバン島抑留)037 首実検(二)・火蟻

首実検(二) 七月十七日

キャンプ外広場に集合せしめられ、又連合軍関係人の首実検があった。 
大型のバスや乗用車で乗りつけた彼等の名指しで、此のキャンプの中から五人の者が抽出され、拉致されて行った。今日拉致された此の人達の運命が、明日自分等に来るかも知れない、否来る。 
公算は大きい。既にその場合の覚悟は出来ているものの、徹し切れない凡人の弱さと、連合軍の戦犯審理の解釈が納得出来ない。 
此のキャンプでの苦役には耐えても、戦犯という不合理の死神は、我々の心に黒雲となって覆い蔽さって来る。そしてこの不安は我々容疑者の殆んど共通のものであった。 
その上、空腹と疲れ許りでなく、此の不安が一種の焦燥感となって吾々の心をさいなみ、くぼんだ眼は異様に光ってゆく。 

掌の肉刺数へつつ此頃の
       くらしつくづく想ひ見るかな

火蟻 七月十八日

今日はオランダ人宿舎の裏山で開墾作業だった。 
日本では見たことのないかつ葉樹の繁みに入って先ずの木を切り払うことだったが、既に誰かの手で一部伐採されていた。伐採の跡には黒い土まみれの珊瑚礁の岩肌がのぞいていた。それでも残っている雑木は繁茂していて仲々作業は進行しない。 
困ることには、木の枝に赤い大きな火蟻が巣を造っていて、どうしても此の巣を潰さねば木を伐ることが出来ない。止むを得ず此の木を伐り倒したところ、子供の頭程の泥の巣から無数の蟻がこぼれる様に散らばって、その一群が丁度水の上に油をこぼした様にバッと拡がり、アッと言う間もなくもう足先から躰に走り上ってくる。そして半裸の背や腹を処かまわず容赦なく噛みつくので、その痛さに思わず声を上げた。噛まれた跡は赤く腫れヒリヒリする。逃げる様に作業の場所を移しても執念深く追って来る。 
此の火蟻は蟻というよりもむしろ羽根のない蜂と言った方が適切である。又、此の這うというより走るという方がぴったりと当てはまる。 
此の火蟻という名はどうしてつけられたのか自分は確かな根拠は知らないが、スマトラ島で警備の時兵の仕種を見て成程と思ったことがある。或る時此の兵はマッチ棒をすって点火せしめ、直ぐ吹き消して炎が消え、尖端の燐の部分がまだ真赤に熱しているのを此の火蟻の尻へくっつけると、此の蟻は逃げないで振り返りざま猛然と 此の火の玉に噛付くのだ。そして火に噛みついたままの姿勢で死んでゆく。此の、火に噛みつく強烈な闘争心、即ち火蟻の語源であると。
又、此の火蟻の色は火の炎の色の様に赤いから火蟻。 又、噛みつかれたら火傷を受けた様に疼痛がするから火蟻だ、などという人もあるが、自分は本当の学名を知る由もない。 
此の火蟻の襲撃を何んとか避けながら、監視兵の目を逃れ、早く時間のたつのを神に祈る思いだった。 
そして只々烈しい闘争心を持つ此の火蟻の痛さには全く閉口した。 

火蟻群れてからだ喰はるる山の上
       今日もテラテラ陽の燃えつづく 
青くさき木の葉のいきれにむせりつつ
       汗して今日も木の枝を伐つ
疲れ果て遙か見わたす白雲の
       行先と又我身を想ふ 
哀れにも腹空きくればゆめにまで
       喰ふことなどのつづけて見たり 
野路菊のくらし如何にと思ひつつ
       尚生くことに疑ひを抱く 
日の暮れて今日も手の肉刺かぞへたり
       重労働の長くつづけば 
夕暮れの点呼に屋根をかすめ去る
       つばめの如き羽根欲しく思ふ 
膝と手をつきて床の上這いにけり
       今日もつかれてキャンプに帰れば
すぎ去れる楽しみなどは今はただ
       夢にありけり淡くはかなく 
情けなく身の落ちぶれて行きにける
       からだも心も共にいやしく



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