勝俣涼 Ryo Katsumata
線引きの破れ、または見境のなさ――マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』

線引きの破れ、または見境のなさ――マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』

勝俣涼 Ryo Katsumata

マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』(1990)を観た。ずいぶん前に観たことがあったのだが、同監督の『カジノ』(1995)を先日観たのを良い機会に、再見することにしたのだった。両作品にはロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシという共通する2人の俳優が出演しているのだが、筆者を『グッドフェローズ』の再見へと駆り立てたのは、前者ではなく後者の方だった。小柄な背格好と荒い気性、興奮した猫のような声質、それらがジョー・ペシによって演じられる人物のうちに奇跡的に結晶し、存在感溢れるキャラクターに仕立てている。
 さて、『グッドフェローズ』の世界観の基礎にあるのは、ある家族的な秩序だ。金を納める見返りに、マフィアのボスは身内に庇護を与える。仲間を売らないといった掟の共通了解。そうやって、一味の疑似家族的な共同体の安定が成り立っている。しかしもう一方で、婚姻による実際の個々の家族がある。レイ・リオッタ扮するヘンリーもまた、こうした二重の家族のうちに所属している。言ってみれば、「外」の家族と「内」の家族があるというわけだ。だがいずれも家族である以上は、それらは閉じられた空間なのであって、それを越えた外部の侵入からは守られている。実際、子どもの洗礼式に一味の面々が集まるなど、何をするにも同じ顔ぶれが揃うこととなる。一味が集まる酒場やリオッタの結婚式のショットでは、空間とそこに集う面々を舐め回すような滑らかなカメラの動きが、摩擦とは無縁な密室の幸福な完結性を表現している。
 というわけで、「外」の家族と「内」の家族、この2つの家族が調和的であるかぎりは、2つの家族が摩擦を生じることはないし、「家族」という上位の支配的概念が破綻することもない。しかし、2つの家族が同期を失調させた瞬間、「家族」そのものが、つまり閉じられた空間そのものが崩壊を始めることとなる。
 リオッタは妻と別に、外に愛人を作っている。家と外、二人の女の間に干渉がなく、彼が困難なく自在に、何ら損失なくその2つの空間を行き来できる間はいい。しかし、妻が事実に気づき、愛人の居所へ踏み込もうとするとき、干渉への防壁はにわかに壊されることとなる。この事態は言わば、「線引き」の破れである。
 妻と不仲になったリオッタは、ボスに呼び出され、世間体が悪いから妻と関係を修復しろ、と言われる。このボスの態度こそ、外部(からの視線)への恐怖を何と体現していることだろうと思うのだが、ともかくボスが妻を説得するあいだリオッタはデ・ニーロ扮するジミーとタンパへ行って仕事をすることになる。しかしそこで脅した男の妹がFBIのタイピストで、彼女は兄もろともリオッタたちを訴え、彼らは有罪となってしまう。この一瞬しか出てこない女の存在は、案外重要だ。というのも彼女は、自分の兄つまり「家族」を特に斟酌することもなく、公正さという普遍的な基準によって行動しているからだ。彼女はその意味で、「見境のない」人物である。この見境なさの裁きにより、境=線引きは破られ、リオッタたちはムショに入ることとなる。
 それでも、黒い繋がりのためにムショ暮らしにせよ快適な環境を提供され、旨い飯も食えるのが彼らというものだ。秩序は根本的に揺らぐことはない。しかし、線引きの破れは繰り返し、彼らを襲う。
 さてもうひとり、見境のない人物がいる。その人物こそ、ジョー・ペシ扮するトミーである。彼はとにかくキレやすい。ファミリーの論理ではふつう手を出すことを憚られる大物でさえ、少しからかわれただけでキレてしまい、感情が高ぶるままに殴りかかる。一般人には手を出さないというのがマフィアの心得であるようにも思えるが、彼の場合、むしゃくしゃすればウェイターに当たって撃ち殺しもする。理性のコントロールを失い、感情の流出に圧倒され動かされるままになった小柄な身体の暴発的な挙動は、滑稽ですらある。そして大物を殺したのが、ペシが自分の母親の家から借りてきた包丁だったという事実はそれ自体、「内」の家族と「外」の家族との短絡、調和的な線引きの侵犯をあらわしていないか。
 ところで、一味の幹部になれるのはイタリア人だけとされている。ペシが幹部に推挙されるという話になるが、リオッタやデ・ニーロはアイルランド系のためその資格はない。とはいえ、苦楽を共にした仲間が幹部になると聞き、彼らは素直に喜ぶ。だから民族的な血統による分断は、このポジティブな局面ではそれほど問題にならない。だがそれが深刻さを印象づけるのは、幹部の就任式に出たはずのペシが例の大物殺害の報復で殺されてしまい、それがリオッタやデ・ニーロには口出しの出来ない「イタリア人同士のモメ事」であるという、ネガティブな局面においてである。
 史上最大の大金の強奪を成功させた一味だが、FBIの捜査の手が伸びそうになり、ナーバスになったデ・ニーロは計画に関わった仲間を次々と消していく。そして一方ペシは、先述の事情で命を落とす。物語はその頃から、閉じられた安寧な密室性をついに破られ、代わって映画空間はダイナミックな力動を見せ始める。
 それは、リオッタが過ごすある一日に凝縮されている。その日彼は、いくつものタスクをこなさなくてはならない。夕食のため病院にいる弟を迎えにいく。銃を流し、ブツを受け渡す。家では料理をする。たとえば、「スジ肉をトマトソースで煮る」行為を率先する。こうした、私生活と仕事、「内」の家族と「外」の家族が入り組み、行き来される。これがダイナミズムの1つ目だ。ショットのモンタージュはその往復運動を強調する。また、ヤクをキメながらこうしたタスクをこなすリオッタは、運転中に上空にヘリを見つけ、自分を監視しているのではないかと疑う。ここに2つ目のダイナミズムがある。つまり、地上と上空のあいだの空間的な伸縮がある。複数の座標が、緊張を孕みつつ連関する。そしてついに、警察が家に踏み込んでくるというこの日の結末において、外部の内部への侵入は完遂されるのだ。
 さてしかし、そのようにヘリに翻弄されるリオッタは、ヤクの効果による妄想症に陥っていたのではないかと、誰もが思うだろう。つまりその場面は、監視されているという彼の類推は思い込みであり幻だという、パターン化された因果関係を読みとることを、映画を観るものに許す。
 と思われたそのとき、しかし、鑑賞者は裏切りにあうことになる。なぜなら、あのヘリは実際に、リオッタたちを監視していたことが明らかになるからだ(どの案件で監視していたのかという点での誤解はあったにしても)。そこにあったのは、ヤクによる幻視という鑑賞者から期待された論理ではなく、物語内の登場人物によって(ネガティブにではあるが)期待された通りの現実だったのだ。
 ここに至って、壊乱される内部=密室とは、物語上の家族的共同体のみにとどまらないことが明らかになってくる。構図はむしろ、映画と、その映画を観る私たち鑑賞者との緊張関係、「線引き」の侵犯へとスライドしてくるのだ。
 それが明らかなのは、終盤、証人として法廷に立ったリオッタの身ぶりである。彼は、ボスやデ・ニーロを裏切っている。その点で、「家族」というモチーフの崩壊にダメ押しの一発を加えてもいるのだが、注目すべきは、リオッタの証言が、ナレーションの語りに連続し、さらにはカメラ目線であたかも映画の物語空間から抜け出して鑑賞者に語りかけるような仕方で語られるという、ゴダールを思わせもするメタフィクション的な手法によってなされていることだ。そして、足を洗ってつまらない日常を生きはじめたリオッタの姿に一瞬差し挟まれる、ジョー・ペシが正面=スクリーンに向かって拳銃を発砲(ショット)するショットは、スクリーンの中の空間とそれを観る消費者たる自身の日常的身体とのあいだに防壁としての線引きを施している鑑賞者を、いわば映画という装置の当事者として巻き込む、「見境のない」暴発にほかならない。

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勝俣涼 Ryo Katsumata
1990年生まれ。美術批評・表象文化論。最近の評論に「個人の危機と芸術――ハロルド・ローゼンバーグ『芸術の脱定義』をめぐって」(『コメット通信』第12号、水声社、2021年)などがある。