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デ・ワッフェルファブリーク 0 プロローグ

母へ

プロローグ

 そしてアルカ・ナロフスキは皆に言う。「水曜日の午後、シフトが終わったら、空を見上げて」と。一度や二度でなく、十回も、二十回も言う。朝、皆が通勤して来る時に、駐車場で言う。ロッカーのある廊下で、すれ違いざまに言う。ランチの時の休憩室でも言う。ワッフル工場の女たちが、休み時間にタバコを吸いに外に出て、そんな時には、あのいやなワッフルたちのことは、しばし忘れてよくて、そうやっている時にも、アルカは窓から首を出して、また繰り返して言う。
 「どうして空を見上げなければならないの?」と、ディッケ(太っちょ)・ヘルダは聞き返す。
 「とにかく信じてよ」アルカはにこりと笑って、答える。

 その水曜日の午後が来て、アルカ・ナロフスキは、初めどこにも見当たらない。実に彼らしいことなのだけど、ワッフル工場の者たちは未だ、彼のそういうところを知らない。そうやって、皆で駐車場に集まって来る。社長を除いて、全員が集まる。社長は事務所で、トウキョウとの大事な商談の最中だ。
 「で、アルカはどこ?ひょっとして、帰ったの?」倉庫及びロジ担当のパトリックは聞く。
 「帰って行くのを見たの?」シャーンは答える。彼女たちは、作業が終わってから、ずっとそこに突っ立っている。
 パトリックは車の方に、側面にステッカーがごちゃごちゃ貼ってある自分のフォルクスワーゲン・ゴルフの方へと歩く。運転席に座り、だるそうに巻きたばこを巻く。
 「俺は帰るよ」とパトリックは言う。だが実際には帰らない。好奇心の方が勝っているのだ。それにちょうど、アルカ・ナロフスキが外に出て来る。つるっぱげ頭に、筋骨隆々の二の腕、それでいて身長は2メートルを超すから、アルカのパッと見は威圧感が強い。
 「あーあ、残念な人達だなあ」と彼は言う。
 幾人かの女たちは笑い出す。アルカは、彼の風貌に見合った低いベース音ではなく、なんだか歌声のような声を出すので、「残念な人達」という言葉も嫌な感じには響かない。ハッピーな鼻歌のように聞こえる。
 女たちはみんなでアルカの方を見る。ディッケ・ヘルダだけは、まだじっと空を見つめている。
「そのために出て来たんでしょ」と誰に言うとでもなしに言う。「なんにも見えないわよ」
 ヘルダでさえ外に出てきたのだ。そう、彼女だってもちろん出て来た。工場ではおよそ何事も起こりはしない。そういうことになってるはずなのに、アルカ・ナロフスキが現れてからは、毎日が「またいつもと同じような日」では終わらなくなってしまった。
 彼がポーランド人なのかロシア人なのか、誰も正確には知らないし、彼自身もそれに触れはしない。そんなことはどうだっていい。彼が唯一打ち明けたことは、長い間軍隊に居た、ということだけだった。
 「もっとずっと上を見て」そう言うと、噛みタバコでも噛んでいるかのように口をもぐもぐさせながらニヤリとする。軍隊ではよくタバコを噛んでいた。そしてギラギラと輝くアフガニスタンの砂漠の砂の上に噛んだ噛みタバコの塊をペッと吐きつけたものだった。
 ほとんどの女たちは、彼の言うことをちゃんと聞いて、視線を上に上げる。本当は休憩所でコーヒーを飲んで座っている方がずっといいはずなのに。後の残りの女たちは、もう少しだけ、わざわざそうすべきである理由を必要としている。肩をぽんっ、と押してくれるような何かを。
 それでも、アルカは満足そうに、腕を胸に組んで、瞳を輝かせている。その瞳を、この先のいつかどこかで、皆がまた、じっと見つめることになるだろう。
 「何を見ろって言ってんだよ?」パトリックは愚痴る。吸い殻を放り投げて、ワーゲン・ゴルフから出てきた。
「がまんがまん!」アルカは答える。パトリックはため息をついて、革ジャンのポケットに手を突っ込んで、次の巻きたばこを探す。
 女たちはもうしばらく空を見つめている。頭をペコンと後ろに反らして、そうやって何かを待つ。
「首が痛くなっちゃった」ユリアは大げさに言う。
 アルカは彼の大きな手を彼女の肩にそっと置く。
「よーく見てご覧」と言いながら彼女の疲れきってしまった肩を摩る。
 その先にディッケ・ヘルダが立っている。彼女が、みんなよりめんどくさがっているというわけでもないのだけれど、もう一度深いため息を吐いてから、視線をまたさらに上に上げる。
 アルカは、小隊を点検する中佐ででもあるかのように、みんなの間を縫って歩く。シャーンの前で立ち止まり、静かに彼女の手を自分の手に取る。みんなガヤガヤはしゃいで話を遮りあっている中では、それは上品な振る舞いだった。彼は彼女の手を天へと持ち上げ、彼女はその手の先を目で追う。
 「見ていればいいわ。私は中に戻る」ディッケ・ヘルダはそう言う。そう言いながらもまだ立っている。だって、みんなまだそうしているから。
 「待って。ほら、見て。見える!」ユリアが言った。
 「確かに見える!」
 アルカは満足そうに両手を前に組む。
 「何が見える?」
 ユリアはたった今、確かそうに言っていたのに、今度は口ごもる。
 「雲と。空と…… あれ、もう見えない。いや、見える。その、こう…… 何ていうの。大きな物が。ほんとに大きな」
 「それ、それ」アルカ。「白い?白かった?」と続けて聞く。
 「それとも何かこうメタリックな?」
 「そうかな、メタリックかな」ユリアは自信なさそうに言って、それからまたはっきりと言う。
 「そう、メタリックの」
 「ほんとに?」ディッケ・ヘルダは口を挟む。
 「なんにも見えないわよ」
 「良く見てないのよ」とユリア。実際のところ、ヘルダは、ユリアが指し示した方角を見てもいない。
 「何にもないわよ」彼女らしい、ずばずばした口調ではっきり言う。他の女たちはやがてその物体を見たらしく、曖昧な言い方だが、やっぱりメタリックで大きなものだということを繰り返して言う。そして、もう一服タバコに火をつける。
 アルカ・ナロフスキは少し後ろの方に下がっていて、腕を胸の前に組んでいる。足はいくらか広げている。強そうでもあり、リラックスしているようでもある構えだ。彼は、人を怖気づかせるせるような目で、グループ全体を見渡したのだが、女たちは空を見ていたので、彼のそんな視線には気づかない。彼女たちは、確かに、何かの物体を見たかもしれなくて、それなら、さらにそれをより良く見ようと努力したとて損はない。
 アルカは咳をして、手をパチンと鳴らして、工場の入口の方へ歩き出す。舞台は終わった。中へ戻る時間だ。だが、遠いところで、小さな低い音が鳴っている。とても小さな音で、皆がお互い同士で話しているので、誰もまだ気づかない。
 「ちょっと聞いて?」ディッケ・ヘルダは言う。
 「私、音なら聞こえる」彼女はほっとしたように、飛行機の方を指さす。色はメタリックではなく、雲のように白い。
 アルカもまた空を見上げる。明らかに嬉しそうだ。
 「見て!」ユリアは叫ぶ。「飛行機!」
 「後ろに、旗が付いてる!」とヘルダは言う。
 みんなで目をパチクリさせてよく見ようとする。飛行機が示すメッセージが何であるのか、誰もが誰よりもいち早く読みたい。すぐさま、誰かが何かを読み上げようとして、のどを詰まらせて、ゴホゴホ咳き込む。みんなはまたじっと見つめている。だが飛行機が彼らの真上に来る時に、彼らのがっかりは確定することになる。その旗は、空っぽで、真っ白で、何も書かれてはいない。




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