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食べたくなる“言葉”

コミュニケーションとは、ことばを交わすことであり、身体を触れ合うことであり、“いま”を共有することである。

そうした営為の根幹を突き詰めれば、いつでも思考と身体、そして「言葉」に行き着く。

言葉で考え、言葉で伝える。

じゃあ、そんな言葉はどうやって獲得してきたのか。

無論、日々の営みのなかで、投げかけたり、受け取ったり、創発し合ったりしている。

松岡正剛のことばは滋味深く、伊坂幸太郎のことばは喉越しがよく、中島らものことばは、どことなくエタノールの鼻をつく香りがする。

坂口恭平のことばはジビエのごとく野性味に溢れているし、村上春樹のことばは芳醇なバタ臭さが漂う。

一見したところ、無味乾燥とした活字の羅列も、わたしという思考と身体を濾過したとき、共感覚にも似た、人間としての悦び、ぼくがよく使う言葉で「言葉を手にしていく感覚」を振動させてくれる。

目を閉じて、呼吸を止め、いままで手にとってきた本や、出会ってきたことばの塊と列に想いを馳せれば、大きな大きな滝が濁流となって身体をさらう感覚がある。

言葉を食べ、言葉を吐き出し、また食べる。

その繰り返しによって、ぼくらは生かされ、そして生きている。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。