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“孤独”を飲み込む

「“孤独”とはなにか」ーー。

友人の多寡か、恋人の有無か、ひとりで寝ることか、相談相手がいることか、俗世や文明から距離を置いて暮らすことか。

孤独を規定する尺度はさまざまで、その内実や質感も、ひとそれぞれなんだろう。

それでもぼくがイメージするほんとうの孤独は、どこかあたたかで、やわらかく、究極的にはポジティブなものだ。

これまで生きてきて目に映った断片的なイメージや、泡沫のようにぷかぷかと現れては消える言葉、パッチワークのような断想を手がかりに考えてみたい。

人は死ぬから、生きる。生きるから、死ぬーーー。

時折飛び込んでくる著名人の訃報や、映画や文学・ドキュメンタリーで描かれる死は、どこまでいっても“だれかの死”として頭は処理する。

どれほど想像力が豊かな人であっても、あくまで未体験かつ一回性のイヴェントを実在的に把捉することはできないのだ。

ジョブズの有名な「Stay hungry, Stay foolish」のスピーチに、ユーモアを交えた、こんな一節があったことを時折、思い出すことがある。

誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間さえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。

メカニズムやコンセプトとしての「死」を頭でなんとなく、理解したとしても、それを実際に経験するまでは、本当に分からないのだ。
深いレベルでそれが、真に何を意味するのかは。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と村上春樹はいう

実存的な死の意味は分からない。
それでも「生きていくこと」と「死んでいくこと」ーー。
全人類が唯一共有しているこのシンプルなルールから、めいめいが絶えず解釈を繰り返し、絶望と希望の行き来から、意味を感じ取ることはできないだろうか。

アイスランドの羊飼いと、インドの群衆

18歳の夏、バイトで貯めたお金で、2ヶ月間アイスランドに滞在していたことがある。

当地で出会ったスペイン人二人組とすぐに意気投合し、三人で借りたレンタカーで島を一周。ドライビングの途中で、基本的に景色が変わることはない。
ただ、あの頃から10年以上の時間が経過するにも関わらず、僕の記憶と情動から決して離れない光景がある。

羊飼いの少年が、20体群ほどの羊を、見たこともない笑顔で追い続ける情景だ。

火山と間欠泉から成るこの国で、彼はきっと、ネットワークで全方位に繋がり合うグローバリゼーションの網に、絡みとられていないマイノリティの一人なのであろう。スマートフォンならずインターネットさえ知らず、ただただ今日も、羊を引き連れ、あちらからこちらへと、移動を続ける。

いや、彼の視点に立つならば、彼もまた向こうの世界のマジョリティの一構成員なのであろうか。

占い師は、自分を占うことができない

「知らぬが仏」はいつだって、二重性を帯びた言葉だ。

コインの表裏には、「知ったが仏」の可能性が付きまとい続けるが、「知った」瞬間に、そのどちらが真だったのかの答え合わせは永劫不可能になる。

その理由はシンプルで、ぼくもお母さんも、あの人もこの人も人生の“一回生の檻”のなかで生かされているから。本や映画、友達との会話が想像力を膨らませてくれることはあっても、真の意味でなにかを実態的に比べることはできない。

分からないから考える。考えて、わかった分かったつもりになる。でももっと分からなくなることの方が多いから、苦悩する。

どれだけ苦悩しても正解は分からない。歳をとって、いろんなことが分かっても、最後は消えてなくなる。一回性は儚く、それでいて美しい。

意味の意味の意味の意味

考えるための「概念」や「言葉」たち。

「言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。存在が言葉になる」

と、ハイデガーは言った。

『利己的な遺伝子』よろしく、歴史の偉人たちが滔々と紡いできた知のミームに想いを馳せれば、そこはかとなく神々しい気持ちを覚える。

どの時代を切り取ろうが、1人の人は1回目の人生を生き、死んでゆく。この所与条件が変わらぬ限り、人工知能が茫漠たるデータセットを飲み込み続けても、どこに向かっているのかの、「どこ」は明らかにされない。

だからぼくは思う。その局所的瞬間に、「これは、こうである」と微かな確度の基づいた仮説に対して、“言い切れる”度量と、未来観測力こそが、自己達成予言的に、明日の世界地図を形作るための一歩を拓き続けてきたのではないか、と。

インドの孤絶と思索

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。

ある高校の校長が語った言葉。

インドでの圧倒的孤絶に包まれながら、思索し、うな垂れていた日々を思い起こす。

孤独をどこまで引き受けられるか。振り返れば、それが別軸の成長分を創出してくれた気がする。
人生のある時点でまとまった時間を、閉じた暗い空間で、自問自答や思索をすることで過ごす。時間の重さ、鋭さ、遅さを体感する。

考えても、考えなくても、時間は流れる。そのことに、時間をかけて向き合ってみるのも悪くない。

ソローはなぜ、ウォールデンで、ひとり森の生活を営むことにしたのか。

私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。

不安は優しさに変わる

彼はこうも言う。

迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようにもなるのである。

孤独は永遠につづく気がする。夜は長く、重たい。
でも、それを超えなくては思い巡らせられない領域がある。

失って気づくことだらけだ。

分かったつもりにならないためにも、ロジックなんかどうだっていいから、目の前にある幸せから大切にすべきだと思う。当たり前は当たり前じゃなく、これからどうなるかはそのときにならなければ分からない。でもいま目の前にある幸せがあるならば、まずはそれにすがった方がいい。それを育み、注ぎ続けることは、尊い。

孤独は、教えてくれる。

だれかと分かち合ってはじめて幸福が生まれることを

孤独は自分の頭が作り出す怪物だ。人生の連続性や相対性を見失うと、やつは肥大化し、強迫観念をブチまけてくる。過去に学べば、明日には知らなかったことや、知らなかった人に出会える。でも、握りしめて離しちゃいけないこと、は明日にならなきゃ分からない。

『孤独』というものと対峙したときに、うずくまって耐えるんじゃなくて、取り込んでいきたい。

体の奥に沈めて、飲み込んでいきたい。その先にだけある、微かな意味を感じながら生きていきたい。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。