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原書のすゝめ:#13 Fahrenheit 451

私はいつも「記事」を寝かせる。
長いものだと1年以上寝かせている。
というか、思いついた時に書いたものが溜まってしまうから、記事の方で勝手に寝ている。

そして、ときどき風味を確認しながら、発酵を待つ。書いた順ではなく、熟成したものから出荷する。そのため、季節感のあるものは少なく、トレンドにも乗らない。英語エッセイは頭に浮かんだ順に書いて、書いた順に投稿しているので、夏に冬の記事が掲載されていたりする。旅行ガイドでもなければ、旬の話題もほとんどない読み物である。


昔から流行に乗り遅れるタイプで、ファッションでも食べ物でも、いつも時代に置き去りにされてきた。とはいえ、流行というものは大抵の場合、10年かそこらでリバイバルするから、たとえ乗り遅れてしまっても2度目のブームには間に合ったりする。そのため、今では周回遅れを気にすることはなくなった。古きを懐かしむ懐古趣味があるかぎり、世相は輪廻する。

ところが、こうした時代の回転に乗らず、水平方向のベクトルにしか動かないものがある。

それは、科学技術である。

テクノロジーは、スピードの違いはあっても常に進化を続け、その進路は前方にしかない。常に時代の先端を走り、時代を牽引していく。視線はいつも未来に注がれる。

そして、その最先端の科学技術のさらに先を行くのがサイエンス・フィクションの世界である。
一口にSFといっても、未来ものや異世界もの、ファンタジーやホラーに近いものなど幅が広いため一概に「最先端の技術を描く世界」とはいえないが、なかには高度な科学技術や社会現象の知識に基づいた作品もある。

たとえば、Andy WeirのThe Martian『火星の人』はNASAの技術者を唸らせるほど正確な知識で火星でのサバイバルの様子を描いているし、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』や『R.U.R.』は人類への警鐘を鳴らしていたりと、未来を予告するような感覚の鋭さを持っている。

そんな「未来予想図」から今回紹介するのは、Ray Bradbury の『Fahrenheit 451』である。



Part1 
The Hearth and the Salamander

It was a pleasure to burn. It was a special pleasure to see things eaten, to see things blackened and changed. With the brass nozzle in his fists, with this great python spitting its venomous kerosene upon the world, the blood pounded in his head, and his hands were the hands of some amazing conductor playing all the symphonies of blazing and burning to bring down the tatters and charcoal ruins of history. With his symbolic helmet numbered 451 on his stolid head, and his eyes all orange flame with the thought of what came next, he flicked the igniter and the house jumped up in a gorging fire that burned the evening sky red and yellow and black. He strode in a swarm of fireflies. He wanted above all, like the old joke, to shove a marshmallow on a stick in the furnace, while the flapping pigeon-winged books died on the porch and lawn of the house. While the books went up in sparkling whirls and blew away on a wind turned dark with burning.

 火を燃やすのは愉しかった。
 ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真鍮の筒先を両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吹きかけるのをながめていると、血流は頭のなかで鳴りわたり、両手はたぐいまれな指揮者の両手となって、ありとあらゆる炎上と燃焼の交響曲をうたいあげ、歴史の燃えかすや焼け残りを引き倒す。シンボリックな451の数字が記されたヘルメットを鈍感な頭にかぶり、つぎの出来事を考えて、目をオレンジの炎でかがやかせながら昇火器に触れると、家はたちまち猛火につつまれ、夜空を赤と黄と黒に染めあげてゆく。彼は火の粉を蹴たてて歩いた。夢にまで見るのは、古いジョークにあるように、串に刺したマシュマロを火にかざしてぱくつきながら、家のポーチや芝生で、本が鳩のようにはばたきながら死んでゆくのをながめること。本がきらめく渦を描きながら、煤けた黒い風に乗って散ってゆくのをながめることだった。

<『華氏451度』伊藤典夫訳(早川書房)>


冒頭から不気味な雰囲気が漂う。
放火魔の話だろうかと思いながら読むと、そうではない。

fireman 消防士ならぬfireman 昇火士が、「本」を焼却しているのだ。これだけではSFではなく普通の小説のようだが、『Fahrenheit 451』は未来の「焚書」の話である。

近未来において、本が有害であるという理由からあらゆる本を完全抹消するために昇火士と呼ばれる職業集団が、本を隠し持っている人々を捕え、本や彼らの家を燃やし尽くす。華氏451度というのは本が燃焼する温度で、ヘルメットに記されている数字はそれを象徴している。

冒頭の男が何者なのかということは、この後に続く文章ですぐにわかるのだが、この辺りが面白い。firemanという単語を訳者は「昇火士」と訳している。本来は火を消す役割を担うはずの「消防士」がこの小説では、火をつける職業になっているのだ。

考えてみれば、fireは「火」であるから、firemanは「火の人」となり、火を消す仕事というのはおかしな気もするが、ここでのfireは「火事」の意味なので、「火事の時に駆けつける人=消防士」という連想から派生したのだろう。
それが、文字どおり「昇火士」と呼ばれているのは非常に面白い。

続いて、主人公の昇火士Guy MontagがClarisse McClellan という少女と「偶然」夜道で出会った後の場面を読んでみる。


‘Happy! Of all the nonsense.’
 He stopped laughing.
 He put his hand into the glove-hole of his front door and let it know his touch. The front door slid open.
 Of course l’m happy. What does she think? I’m not? he asked the quiet rooms. He stood looking up at the ventilator grille in the hall and suddenly remembered that something lay hidden behind the grille, something that seemed to peer down at him now. He moved his eyes quickly away.


クラリスから「あなた幸福?」と聞かれたモンターグが、「幸福か、ときたぜ!いうに事欠いて」
と独言を吐く場面である。

ところが、このクラリスの問いにモンターグはハッとなる。自分は本当に幸福なのか?幸福とは一体何なのか?。彼はこれまでそれについて一度も考えたことがなかったのである。

人々の自宅にはラウンジと呼ばれるモニターの壁があり、テレビのように番組を見たり、テレビ電話のように通信したりしている。(アメリカで本格的にテレビ放送が開始されたのが1948年。)《巻き貝》と呼ばれるイヤホンでラジオを聴く。人間は主体的に思考する生き物ではなく、ただ情報を受容する無機質な生き物として描かれる。

考えることや感じることは「罪悪」であり、思考や感情を誘発する本は「有害」なものとして排除される、というディストピアが本書の世界である。

それは、クラリスとモンターグのその後の会話からも感じ取れる。
「きみは学校へは行かないの?」とモンターグに尋ねられて、クラリスは次のように答える。


 ‘Oh, they don’t miss me,’ she said. ‘I’m anti-social, they say. I don’t mix. It’s so strange. I’m very social indeed. It all depends on what you mean by social, doesn’t it? Social to me means talking about things like this.’ ( … ) ‘Or talking about how strange the world is. Being with people is nice. But I don’t think it’s social to get a bunch of people together and then not let me talk, do you? ( … ), but do you know, we never ask questions, or at least most don’t; they just run the answers at you, bing, bing, bing, and us sitting there for four more hours of film-teacher. That’s not social to me at all. It’s a lot of funnels and a lot of water poured down the spout and out the bottom, and them telling us it’s wine when it’s not.

「行かなくても、誰もなんとも言わないの。非社交的なんですって。人と混ざらないって。変だわ。わたし、とても社交的なのよ。社交的というとき、このことばをどういう意味で使ってるかということね。ちがう?わたしにしてみれば社交的というのは、こういうことをあなたと話すこと」(中略)「それから、世界がどんなに不思議に満ちてるか話すこと。いろんな人たちと一緒にいるのは素敵なことだわ。だけど、その人たちを一個所に集めて、話もさせないなんて、社交とはいえないと思うの。そうでしょ?(中略)だけど、これ知ってる?生徒からの質問は出ないっていうか、たいていみんな静かなの。教師はただ答えをずらずらとしゃべって、もうあと四時間座ったままの授業ね、そんなの、わたしにしてみれば社交でもなんでもないわ。漏斗がたくさん並んでいて。上から水をどんどん注いでもみんな下から出ていっちゃう。教師はこれをワインだというのよ。ぜんぜん違うのに」

本書が刊行されたのは1953年。レッド・パージ、すなわち「赤狩り」の時代である。しかしながらブラッドベリが鳴らした警鐘は、現代の私たちにも響くところがあるのではないだろうか。

中盤は中弛みし、焚書行為に疑問を呈しながらも読書讃歌ではないなど、全体的に一貫性を欠いた面もあったが、個人的な書評はさておき、SF小説だと思っていた作品が詩的な美しい文章で書かれていたということは何より意外だった。

原書を読んだ後で邦訳を手に取ってみると、こちらも原書のイメージを裏切らない美しい日本語で綴られていた。(日本語訳はすべて伊藤典夫氏の新訳から引用した。)

本書には未来小説というより、どこか朧げな詩のような印象を受ける。随所に散りばめられた美しい文体が独特の世界を織り上げている。

Montag sat in his chair. Below, the orange dragon coughed to life.
モンターグは椅子にかけていた。階下ではオレンジ色のドラゴンが息を吹き返した。

Outside the house, a shadow moved, an autumn wind rose up and faded away.
家のそとで影がひとつ動き、秋風が立って消えた。

本作品は、フランソワ・トリュフォー監督によって映画化され、1967年に公開された。私は、10年ほど前にこの作品を鑑賞して一目惚れをした。期待値が高かっただけに今回原書を読んでみていささか残念な印象を抱いたのは前掲のとおりだが、それでもブラッドベリの文体は私に深い余韻を残した。

本書刊行から70年経っても色褪せるどころか、日本でも新訳が出されたことから、再読される価値はあるだろう。


「あなた幸福?」


幸せそうな顔でソファに寝そべる猫を見ながら、クラリスの問いを自分に投げてかけてみた。


<原書のすゝめ>シリーズ(13)

原書のすゝめシリーズの過去記事はこちら↓

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