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原書のすゝめ:#6 The Mysterious Affair at Styles


インターネットでも本屋でも、本を検索すると何人かの翻訳者によって訳されている本が見つかることがある。当然、どの邦訳にしようかと迷うところである。表紙のデザインか、出版社か、あるいは翻訳者か。

選んだ選択肢が翻訳者である場合、読みやすい文章か、それとも文体が自分の好みにあっているか、あるいはその翻訳者が好きだからか、とその理由は人によってさまざまであると思う。

私は名前を覚えるのが得意ではないから、翻訳者で選ぶことは少ないのだが、それでも好みはある。北欧ミステリーなら、柳沢由実子さんやヘレンハルメ美穂さん、英米ミステリーなら越前敏弥さんや黒原敏行さんがお気に入りである。なかでも、黒原敏行さんはとくに好きで、黒原さんの訳だとわかると作家が誰であろうと読みたくなる。その理由は、黒原さんの訳が原文と照らし合わせたときに日本語として自然で、しかも原文と翻訳がほとんど乖離していないからである。

たとえば、ある本にあった「A true Parisian」という英語を黒原さんは「生粋のパリっ子」と訳されていた。true 生粋の、Parisianパリっ子。五臓六腑からため息しか出てこない。


黒原さんの翻訳の妙については、また別の章へ改めることにして、今回は20世紀が生んだミステリーの女王、Agatha Christieのデビュー作を読んでみたいと思う。


アガサ・クリスティの名前はおそらく誰もが知っているだろうが、その作品となると、全部知っているという人は少ないのではないかと思う。代表作の『オリエント急行の殺人』や『そして誰もいなくなった』、『アクロイド殺し』などは読んだことがあっても、全作品となるとそうもいかない。なにせその数、小説だけでも100作を超え、戯曲も手掛けるという多彩さである。かくいう私もデヴィッド・スーシェのポワロシリーズをDVDで見たものの、本については案外読んでいない。

そんなわけで、目下私の目標はクリスティの作品を原書で全作品読むことにある。と、大言壮語を吐いてみたが、達成できるのは一体何年先のことだろう。気の長い話である。

ともあれ、その第一歩として、彼女の第1作「The Mysterious Affair at Styles(スタイルズ荘の怪事件)」を読んでみる。これだけ有名な作品となると、翻訳書も何冊か出版されているが、現在書店で手に入るのは、2種類ではないかと思う。

今回は、原書を読むにあたって翻訳についても考えてみたいと思う。


そこで、まずハヤカワ文庫から出ている矢沢聖子さんの翻訳から読んでみよう。


スタイルズ荘の怪事件

 ひところ世間を騒がせた”スタイルズ荘事件”に対する関心は、最近ではいくぶん下火になった。それでもこれほどのスキャンダルを起こしたからには事件の全貌を記録しておくべきだということになって、友人のポワロならびに遺族の方々から、わたしに依頼があった。事件を記すことで、いまだにささやかれている興味本位の噂も消えるはずだと思ったのだ。
 まずは、わたしがこの事件にかかわることになったいきさつを簡単に説明しておこう。

* * *

つづいて、創元推理文庫から出版された山田蘭さんの新訳を読んでみる。

* * *

スタイルズ荘の怪事件

 一時はあれだけ噂となった《スタイルズ荘事件》ではあるが、最近になって世間の関心もようやく薄らいできたらしい。とはいえ、これだけ醜聞が広まってしまったからには、ぜひ事件の全貌を世に明らかにしてほしいと、友人のポワロから、そして渦中のご遺族からも、わたしに依頼があったのだ。これを読んでもらえば、いまだくすぶりつづける世間の心ない噂も、きっと収まるにちがいにない。
 わたしがなぜこの事件にかかわることとなったのか、まずはその経緯いきさつを手短に説明しよう。

* * *

どちらも冒頭の部分である。
では、原文はどうなっているのだろう。


The Mysterious Affair at Styles

The intense interest around in the public by what was known at the time as " The Styles Case " has now somewhat subsided. Nevertheless, in view of the world-wide notoriety which attended it, I have been asked, both by my friend Poirot and the family themselves, to write an account of the whole story. This, we trust, will effectually silence the sensational rumours which still persist.
I will therefore briefly set down the circumstances which led to my being connected with the affair.



2つの文章の印象はずいぶん異なる。
たとえば、at the time を矢沢さんは「ひところ」、山田さんは「一時は」、subsidedを前者は「下火になった」、後者は「薄らいできたらしい」とそれぞれ訳されており、これだけを見ても、文章の風合いがだいぶん違うことがわかる。

私は原書を読むとき、「和訳」をしながら読むのではなく、原書の語感のようなものを感じながら読んでいる。私の「語感」では、矢沢さんのような日本語は到底出てこない。原文を読んだ後で矢沢さんの翻訳に目を通すと、まるで別の作品のような感触を得た。邦訳だけを単独で読んだ時と読後感がまるで違う。

新訳が出される場合、翻訳者が既出の翻訳書を参考にするということはよくあるが、過去の翻訳を参考にしつつも、オリジナルの翻訳を施すのは翻訳者の意欲と能力が問われる。時代とともに言葉も変化するので、こういう試みはあってしかるべきだと思う一方、すぐれた翻訳を読み続けたいと願う気持ちもある。読みたいと思っていた翻訳書がすでに絶版になってしまった場合はなおさらである。しかしながら、旧訳が古すぎて日本語なのに翻訳しないと読めない本については、やはり新訳がほしいと思ってしまう。

ここで考えたいのは、翻訳の優劣などではなく、原書は同じ本であるという事実である。もちろん底本にする版が異なれば、翻訳に差異が出る場合もあろうが、基本的には同じ本である。その同じ本が、翻訳を手掛ける人が異なるだけで日本語として与える印象を変えてしまうという点が興味深い。つまり、原書の文章は翻訳者の日本語に左右されるということだからだ。


私は時々、邦訳を読みながら原文を想像することがある。今回の場合でいえば、矢沢さんの翻訳から私は原文を想像することができない。「友人のポワロならびに遺族の方々」という簡単な日本語ですら、「ならびに」をandへ導ける自信がない。
一方の山田さんの訳では、「そして」と接続詞でつないであるため、すぐにandが思い浮かぶ。ここから矢沢さんの文章がいかにこなれた日本語になっているかがわかる。

もう一つ、短い文章を取り上げてみる。(敬称略)

* * *

◆I am afraid I showed my surprise rather plainly.
【矢沢訳】わたしはぶしつけにも驚きを顔に出してしまった。
【山田訳】わたしはうっかりあからさまに驚いた顔をしたようだった。

* * *

この文章に「ぶしつけにも」という日本語を充てるなど、驚くべき日本語力である。私だったら、せいぜい「失礼ながら」くらいの日本語しか出てこない。こういう翻訳からは、英語よりもむしろ日本語を学ぶことが多い。

では、次の文章は「矢沢訳」だとどういう日本語になるのだろう。

◆ "You're a cynic, Evie"

山田訳では、「君は皮肉屋だな、エヴィ」となっていた。私の日本語訳も同じである。ところが、矢沢訳では「手厳しいな、エヴィ」となっていた。この日本語を逆に英語に訳すとなると、いったい何人の人が「You're a cynic, Evie」にたどり着くことができるだろうか。

ほかにもこういう箇所がある。太字部分は、私が天を仰いだ箇所である。

* * *

◆・・・the vivid sense of slumbering fire that seemed to find expression only in those wonderful tawny eyes of hers, remarkable eyes.
 ・・・内に秘めた燃える思いは、すばらしい鳶色の瞳にだけ捌け口を見つけたようだ。

◆I sank into a basket chair feeling distinctly glad that I had accepted John's invitation.
 わたしは椅子に腰をおろしながら、ジョンの招待を受けてよかったとしみじみ思った。

* * *

話題の本や読みたい洋書を見つけると、いつも原書で買うか、邦訳を買うか迷ってしまうのだが、こういう翻訳書をみつけると、どちらも買いたくなる。英語を原書で楽しみ、日本語を邦訳で楽しむという二重の愉悦に浸ることができるからだ。


原書を読むことで、翻訳書の選び方も変わりそうである。


<原書のすゝめ>シリーズ(6)

※<原書のすゝめ>シリーズのコンセプトはこちらの記事をご覧ください。


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