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日本のレイシズムの特殊性についての試論――ネイション(国民)とレイス(人種)の日本的癒着について

※この原稿は拙著『日本型ヘイトスピーチとは何か』(影書房)に入れなかった草稿を元に書いた試論です。

 在日外国人へのレイシズムを理解する上で最も重要なことの一つは①国民と②人種・民族というカテゴリをきちんと分けて考えることだ。①国籍の区分線と②人種・民族の区分線を区別することと言い換えてもよい。
 だが日本ではこれが大変難しい。そのことをよく表す次の記事をお読み頂きたい。

〈10年ぶり和製力士V〉
 琴奨菊が二〇〇六年初場所の栃東以来、日本出身力士として一〇年ぶりに優勝した。「日本人」でなく、「日本出身」と表記するのは理由がある。二〇一二年夏場所で、旭天鵬(現在は引退して大島親方になっている)が優勝したからだ。
 一九九二年にモンゴルから来日した大島親方は二〇〇五年に日本国籍を取得し、翌年に日本人女性と結婚。優勝した時は、日本人だった。
 旭天鵬が優勝した日を境に、「栃東以来途絶えている日本人力士の優勝」の「日本人」の部分が、「日本出身」「日本生まれ」「和製」などに変わった。
日刊スポーツ二〇一六年一月二六日「「日本出身」の表現の裏にある旭天鵬の思い/連載2」

 福岡出身の「日本人」琴奨菊が優勝する四年前に、モンゴル出身で帰化した旭天鵬が優勝していた。だから「栃東以来途絶えている日本人力士の優勝」とは書けなくなった。そのため「日本出身力士」という言葉が作られた、という記事だ。
 ここでいう「日本人」とは何だろう。旭天鵬(大島親方)が「優勝した時は、日本人」と明記されているから一見①国籍を指すようにみえる。だが違う。もし「日本人」が①国籍を指すのだとしたら旭天鵬優勝時に六年ぶりに「日本人力士の優勝」と書けばよかったわけだが、そうでないからだ。
 いったいなぜ「日本出身力士」という言葉を使うのか。これはもちろん生地(生まれた地)を基準にして「日本人」を定義した、ということではない。「日本出身力士」なる奇妙なカテゴリがうまれたのは、①日本国籍の旭天鵬を「日本人」というカテゴリに(国籍からいえば認めるほかないけれども)入れたくない、あるいは入れるとマズイ、と思うマスコミや社会の視線の現われなのである。つまり「日本人」とは、単に①国籍だけでもなく、②人種・民族的な要素(レイシズム)を加味したカテゴリとして考えられているのである。
 上の記事は多くのことを教えてくれる。第一に、「日本人」/「外国人」という二分法が極めて恣意的に用いられている、ということだ。普段から「日本人」とは?「外国人」とは?などとその定義に頭を悩ませるマジョリティは少数だろう。だがそういうマジョリティの多くが「日本人」「外国人」という言葉を使うとき、じつは気づかないままに他者をある時には「日本人」としてある時には「外国人」として都合よく分類しているのである。これはアルベール・メンミがレイシズムの定義として採用した「差異の利用」そのものである。
 第二に、「日本人」/「外国人」という二分法を使う時、後述する歴史的・社会的条件から、日本では多くの人が、①国民(ネイション)と②人種・民族(レイス)をほとんど区別せず無意識に癒着させている、ということだ。例えば日本で「日本人」/「外国人」と言ったとき、大抵の人は図3のような発想をしないだろうか。

「日本人」と言った時、それは①日本国籍者だけを意味しない。プラスアルファとして②「日系」(レイス)であることが無意識の前提とされている。日本人とはいわば日系日本国籍者のことだ(もちろんプラスアルファで日本在住、日本出身、日本語ネイティブ、日本文化修得者…)。同じように、「外国人」と言った時、それは①非日本国籍者であるだけでなく、②「非日系」つまり人種/民族的にも「日本人」とは違う人々なのだと思われてしまう。多くの日本人はこのような発想に疑問すら抱かない。それほど日本では「①国民=②人種・民族」の癒着は強いのである。

 だが①国民と②人種・民族とは違うカテゴリであり、①国籍と②人種・民族の区分線も異なる。このことをわかりやすく理解するために、日本ではほぼ完全に癒着している①国民と②人種・民族の二つのカテゴリを、概念上引っぺがしてみよう。すると図1ができる。

上下に①国籍の有無を、左右に②人種・民族別のマジョリティ/マイノリティをそれぞれ配置してみると、(日本人/外国人しか存在しないと思われていた空間に隠れていた)四つの類型があらわれる。日本国籍を持つ人々が上段ABに位置するが、A日本国籍かつ民族的マジョリティ、B日本国籍かつ民族的マイノリティが含まれる。下段CDは外国籍だがC外国籍かつ民族的マジョリティとD外国籍かつ民族的マイノリティに分けることができる。

 つまり普段見えないのはB日本国籍かつマイノリティと、C外国籍かつマジョリティだ(図2参照。日本ではレイシズムの壁と国籍の壁が癒着しているため、日本人=「日系日本国籍者日本人」(A)、外国人=「非日系非日本国籍非日本人」(D)であることが無意識に前提されており、結果として灰色部分のBとCが「見えない」)。

Bだと例えば日本国籍を持つ在日コリアンがいる。他にもアイヌや沖縄や被差別部落出身者が含まれるだろう。いわゆる帰化した在日外国人も含まれる。先ほどの相撲選手の旭天鵬(モンゴル出身)や曙(ハワイ出身)や、国会議員の蓮舫氏(台湾出身)などだ。Cには例えば在日ブラジル人・ペルー人などかつて日本が移民として送り出した南米に広く在住する「日系人」とその子孫が八〇年代以降日本にやってきた人々が挙げられる。あるいは「民族・人種」的には「日本人」だと考えられるいわゆる日系米国人が含まれる。例えば幼少期に第二次大戦中に強制収容された経験を持つ米国のマイク・ホンダ議員や、不可能と言われた青色LEDの製品化のための発明でノーベル賞を受賞した中村修二氏などだ。
 さて図1をみると、特にBとCが日本社会では「見えない」ようにさせられていることに気づくだろう。このことは①国民と②人種・民族の癒着をよく教えてくれる。そして日本のレイシズムは、ふだんはBとCという不可視のカテゴリにおいやっておきながらも、都合よい時A(日本人)扱いし、都合悪くなるとD(外国人)扱いするなど、じつに恣意的に人間を分類する。 
 例えばB日本国籍を持つ在日コリアンの場合、「日本国籍だったらもう日本人じゃん」という形であるときは都合よくA日本人に組み込まれる。アイヌや沖縄や被差別部落出身者も日本国籍を持っているということでマイノリティとしては見えなくさせられる。しかし都合次第ではBはD「外国人」にも追いやられる。在日コリアンなら在特会がそうしているように、日本国籍を持とうが「外国人」として攻撃される。先ほどの旭天鵬もそうだ。そして国会議員の蓮舫氏(台湾出身)や新井将敬氏(コリアン)などが「売国奴」や「帰化人」として差別されているときは「外国人」扱いされている。
 CもまたAやDに追いやられる。例えば97年に愛知県で集団リンチ殺害されたエルクラノ君(当時16歳)ら在日ブラジル人はDに、あるいは日本軍「慰安婦」問題の解決に尽力し二〇〇七年の米下院決議に奔走したマイク・ホンダ議員も「売国奴」としてD扱いされる一方、ノーベル賞を受賞すれば中村修二氏やカズオイシグロ氏のように簡単にAの「日本人」扱いされるのである。
 これらBとCに居る人々が不可視化され、AとDに追いやられること自体が、既にみたレイシズムの「差異の利用」(①国籍と②人種・民族のそれぞれの差異の利用)であることは容易にわかるだろう。こうして、あくまでマジョリティや日本社会の都合によって民族・人種的マイノリティは見えたり見えなかったりする。図3の「日本人」/「外国人」的な発想が社会の常識となっている背景には右のような力が働いているわけである。
 ちなみに欧米では①と②の日本ほどの強力な癒着は存在し得ない。
 では、なぜ日本では欧米と異なり、①国籍と②人種・民族の分断線が強く癒着しているのか。
 第一の理由は、それは公民権運動というシティズンシップを闘いとる強力な反レイシズム運動である。米国で公民権運動は社会に反レイシズム規範を根付かせた。それによりある歴史的時期に、①国民(ネイション)と②人種(レイス)を引っぺがし、また①国籍の壁と②レイシズムの壁を引っぺがすことに成功したためである(図1から図3へ)。それによりBとCは社会的に「見える」ようになる。つまり多民族・多文化主義が成立する(念のために言えば米国でマイノリティが見えるのは「肌の色」のためでは決してないのです)。つまり国籍によって上下を分ける区分線①だけでなく、左右を分かつ区分線②が反レイシズム規範によって明確に「見える」化されている(同じネイションのなかでエスニックマイノリティとして存在を承認する)ためだ。これがマイノリティの「見える」化の意味である。
 では日本はどうか。残念ながら日本には公民権運動に匹敵する反差別運動は存在しなかった(在日コリアンは未だシティズンシップを獲得していない)。その結果、日本では①国籍の区分線と②レイシズムが独特の形で癒着したままなのである。
 だが、理由はそれだけではない。第二の理由は(『日本型ヘイトスピーチとは何か』)第三章で見る日本の特殊な歴史的・社会的条件に由来する。日本政府は1952年以後、戦後在日コリアンの国籍をはく奪し、非日本国籍者の人権を認めない入管法制を外国人政策の代用物として全面活用してきた(1952年体制)。その結果、政策上も法制度上も、①国籍と②人種・民族の分断線をほとんど癒着させて、在日外国人の支配に活用したためであった。

(以上)

※この原稿は紙幅の関係で割愛した、拙著『日本型ヘイトスピーチとは何か』の第二章のp56に挿入されるはずでした。まだ試論なので今後もっと議論を練っていきます。

追記1

マイク・ホンダ議員について誤った記述がありましたので修正しました。ご指摘くださったエミコヤマ様に記して感謝します。(2019年7月22日)

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