2019春文学フリマ東京
久しぶりに書きます。
モノレール、昨年秋の東京文フリに行った時にも乗ったはずなのに、なんか前より絶対速くなってる気がしました。カーブも勾配も急で、公共交通機関というより遊園地の楽しいコースターみたいな。私のほうが年々その手の乗り物が駄目になっているので、妙に速く感じたのはそのせいかもしれません。
文フリは、前回(昨年秋)に久しぶりに行ってから、また通ってみようと思うようになりました。行かなかったときや、行けなかった期間に(やっぱり行けばよかった)と思うことが多かったからかもしれない。
きょう手に入れたものは帰りの電車で読み、帰ってから読み、という感じで少しずつ読んでいます。同人誌、本当にクオリティがその……すごいよ……
「Tri」さんの新刊をわりとすぐに読んだのですが、濱松哲朗さんの文章「歴史を語る、その手前に思うこと。」に触れて、短歌とシンポジウムのくだりについて少し考えました。全体も興味深くて、面白かったです。このあとに書くことは、濱松さんの文章に書いてあることではなくて勝手なる私見です。
たしかに短歌というジャンル、シンポジウム好きだよなぁとふと思いました。ほかのジャンルはどうなのか、よく知らないのですが……。短歌史の起点や転換点って、種々のシンポジウムの開催年月を基準に書かれ、語られることも多いんじゃないかとおぼろげに思ってみたり。論・作に続く、鼎の第三の脚が、「登壇発言」なのかもしれないなぁとか。あるいは歌会という文化の延長に置けるのかもしれません。
で、参加者でも登壇者でもよいのですが、シンポジウムに立ち会ったかどうかが名前の残り方に関わってる(気がする)の、なんというか結構大きなことだなと思ったんです。短歌の人はお話もとても上手な方が多いし、会の記録もすごくしっかりしてて……19xx年のそこに誰がいたか、どういう話をしたかってすごくクリアに残っているように思います。
ただこの話の結論は今のところないんですが。前からモヤ〜としてたポイントが自分の中では(これでも)整理できたなと思いました。ずいぶん半端ですがこれ以上はまだまだ文章にできないので、いったんこのへんで収めることにします。
そうそう、秋の東京文フリに出ます!!
おわり
(ヘッダーはTsushimahikariさんによる写真ACからの写真 です。)
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