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書評でも感想文でもない その2

今回も、取り上げるのは1983年初版の浅田彰『構造と力』だ。

そもそもこの本は、近代哲学によって提唱された<構造主義>を話題にしたもの。


いわゆるニーチェ以後の哲学

一般に<哲学>といえば<西洋哲学>が中心だが、僕はあまり好きじゃない。

とくに「ニーチェ以前/ニーチェ以後」と大きく分けられているが、ニーチェ以前なんてキリスト教ありきの話であって、日本人の僕にはほとんど関係がない。

それでも何か得られるものがあるかと思っていたが、今のところない。

でもニーチェ以後であれば、レヴィ・ストロースらの思想は読むに値するものだと思う。

その<構造主義>でさえ、令和の今となっては過去のものとなりつつあるが、<哲学>に多少でも興味がある学生などであれば、触れてみてほしい。

そして、<構造主義>の入門書はいろいろと出ているが、この浅田彰『構造と力』は入門書としても非常におすすめできる。

文章も割合、平易で大学生だったら読めるはずだ。

一度読んでよく分からなかったとしても問題ない。

2回読めばいい。

それでもダメなら3回。

それだけのこと。

ちなみに僕はこの記事を書くために読んでいるが、これで3回目だ。


今回も序文から引用する

ところで、「序に代えて」がすでに大きな1つの試論になっており、まずはそこへスポットを当てている。

サブタイトルが「知への漸進的横滑り」となっていて、いかにこの混迷を極めた現代社会において手詰まりにならないように生きるか?について書かれている。

前回の記事で触れたが、ノリながらシラケるしか我々に選択肢はなかった。

さらに今回は、サブタイトルにある「漸進的横滑り」をするための方法についてだ。

してみると、あなたに残されているのは、ひとまず近代を常ならぬ恐るべきものとして引き受けた上で、その内部で局所的な批判の運動を続けるという困難な戦略だけである。圧倒的な柔軟性を誇る近代のドクサに対し、パラドクサを突きつけてやまぬこと。そのことで、近代社会を貫く膨大な前への流れに微妙な編曲を生ぜしめること。p.18

ここでは、近代というジェットコースターに疲れ果てた大部分は始原へと還りたがりがちだということが書かれていた。

では始原とはそんなに理想郷だったかというと、そんなことはまったくない

そもそも始原がそんなにユートピアだったのなら、どうして我々はそれを捨てたのか?

この疑問に答えはない。

なぜなら前提が間違っているからだ。

始原をいくら探したって、見つかるのはカオスだけ。

そしてそうして始原をたどるなかで我々の目に映るものは、さまざまなカオスが整理され統合され…といったいくつもの歴史だけだ。

いくら遡っても始原やユートピアは現前してこない。

では始原を求めるのはやめにして、近代を大きく括ろうとしても、その議論は的を射ることはない。

そもそも近代を大きく括ることはできない。

なぜか?




申し訳ない、ここはうまく読み解けてないので次回以降……(大汗)

要するに、ここでも「ノル」「シラケる」という二値論理を否定しているわけである……。


無限のグラデーションのなかに

それにしても浅田彰の「二値論理には答えないようにする」というのは人生哲学にも大いに応用できそうだ。

いちいちどちらか極端な選択をするのではなく、その間に無数にあるグラデーションに目をやってみること。

人を騙す者がよく二値論理に話をもっていこうとするのが頷けるのではないではないか?

道を誤りそうになったときは、落ち着いて自分を俯瞰してみて、丁度良い選択肢がないかを探してみよう。



今回はここまで。

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