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世界を征服するための習慣化と「頑張らなきゃいけない空間」を作るために

4月も残りあと4日もある。
人は4日間もあれば変わることができると思う。

なんだろう。

國分功一郎先生の「暇と退屈の倫理学」と「目的への抵抗」を読んだからか、いまなんとなく「大丈夫」という気持ちがずっとある。

「暇ではないのに退屈している」という状況はとても辛い。本書でも語られているが、それはまるで映画「ファイト・クラブ」の主人公のように、毎日忙しく働きながらも心のどこかで飛行機が墜落しないかなと願っているあの状態…。いや、わかる。

自分も新卒で会社員をしていたときは、この忙しくも、確定された未来に希望を持てない状況(例えば会社の先輩の姿が10年後の自分であるという信じられない事実)から、どうやって抜け出せばいいのか分からずにいた。

だから、不可思議/wonderboyの「世界征服やめた」という曲の歌詞にある

もしもお前が世界征服しに行こうって言ったら
履歴書もスーツも燃やしてすぐにでも太平洋にくりだしたよ

俺はお前がそういってくれるのをずっと待ってたてゆうのに

いま思えば受け身野郎でしかないのだが、この歌詞のようにクソもつまならい日常から抜け出させてくれる誘い、例えそれが飛行機墜落だとしても、世界征服だとしても、を待っていた気がする。しかし一番最初のスターウォーズのように、辺境の惑星にある自宅に、お姫様からの極秘ミッションを託されたロボット2体がやってきて運命が変わるなんてことがある訳ないのだ。そこから抜け出したいが、仕事が忙しいことを言い訳にして、抜け出すための思考を放棄していたように思う。

まあ色々あってその状況から抜け出すことに成功するのだが、その後襲ってくるのが「なんとなく暇だ」という絶望的な状況である。本当にこれは、超絶ヤバい。だってフリーランスになって楽しく無我夢中に働いているのに、「なんとなく暇」という感情が現れるってどういうこと!?!?どうしたらええっちゅーねん!!!

悩んでいたわけではないが(こういう書き出しをするということは悩んでいたのかもしれない)、こうした暇と退屈に対する感情?状況?に対していかに処するべきか全くわからなかった。

実はドイツの哲学者ハイデガーが退屈を3つの形式に分けており、ハイデガーと言えば哲学の中でも死ぬほど難解なイメージを持っていたが、國分先生によれば「ハイデガーはむしろとても丁寧に説明していてわかりやすい」と述べるのだ。読者を通じてまずハイデガーに対するイメージを払拭できただけで嬉しいが、このハイデガーや他の哲学者たちの暇と退屈に対する論述を自分でも理解しやすいように言語化してくれて、そして國分先生なりの結論(のようなもの)を導き出している。

前回のnoteで「少し孤独に負けそうになった。」「もう大丈夫。昨夜、何か吹っ切れる瞬間があった。」と書いたが、おそらく本を読んで、「あ、これハイデガーが言ってた第3形式の退屈だな」「これは第二形式の退屈かもしれない」と、どこか退屈に対して客観視している自分がおり、そうすると少し安心するのだ。

ちょっと熱くなり過ぎたが、こどもの頃から特段やりたいことや夢などなく、常に「ここじゃないどこかに行きたい」と思っていた自分にとって、かなりグッとくる本だった。

いきなり本、というよりもとりあえずこちらのインタビュー記事から読んでみるとよいかも。

習慣の見直しについて

先ほど出てきた「客観視」と言えば、今月から辞めていた瞑想を再開した。習慣としての瞑想は実に2年半ぶりである。

坐禅や瞑想とは自分の身体や心の機微に対して俯瞰し観察することである。
夜寝る前は必ずやっていて、加えて昼間など、作業で頭パンパンなってきたタイミングでやっている。最近は1回10分でも少し短く感じてきた。

加えて、外出先にスマホを持ち歩かなくなった。これが、今の所けっこういい。(サムネネイルにスマホ映ってるが昔の写真なのでご勘弁)

自分にとってよくないのは「ただSNSを見ること」ではなく、なんとなく退屈だから他人からの反応を稼ぐためにインスタのストーリーをアップしたり、それが何人から/誰から既読や反応が付いてるのか確認したり、全然進まない作業の気分紛らわすために脳死でYouTubeを見て時間を無駄にしたことに絶望している感情なのだ。

4月も残り4日もあるので、この辺をもう少し手探りで実験してみたいと思う。

加えて、新たに習慣化したいのは

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