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「ちょうつがい」のように生きよう

こんばんは、東京に出張中のホテルで書いています。
東京出張なのにホテルで一人で過ごすとか寂しいので誰か誘ってください。自分の主役は自分

自分の主役は自分

現在2018年、私は今33歳。
10年前の2008年、私は23歳。リーマンショックが起こった。
20年前の1998年、私は13歳。日本は初めてサッカーのW杯に出場した。

そして2028年。私は43歳になる。

孔子は「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と言ったという。

三十歳に至って独りで立つことができた。
やがて四十歳のとき、自信が揺るがず、もう惑うことがなくなった。
五十歳を迎えたとき、天が与えた使命を自覚し、奮闘することとなった。

30で独り立ち、40で迷わず自信を持ち、50で天命と知る。
そして、

(その後、苦難の道を歩んだ経験からか)六十歳ともなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまでわかるようになった。
そして、七十のこの歳、自分のこころの求めるま暗に行動をしても、規定・規範からはずれるというようなことがなくなった。

出展:http://joujusugi.com/35defa/?p=2797

60で他人のことが理解出来、70になるとオレは神だと思うようになると。

昔から(当然ながら)何歳になっても人生の主役は自分。

まちの主役はだれ?

では、自分でないその他ではどうか。

自治体や企業、その他法人。

社会の公器とよばれるそれらの主役もそれら自身ぽい。

その証拠に、すべてにおいて透明性が期待され、個人より総体が尊重される。
(と、いうかそういう団体が評価されるよね)

という文脈で考えると、もちろん「まち」の主役もまちである。
でも自治体も企業も、その他法人も、「まち」も個人(自分)が作り上げていくもの。そこにある種のコンフリクトがおこるときがあるなと感じる。

例えば、

今天命と知った50代がまちづくりの中心にいるとする。
そして、自分が立ってきた30代が新しい風を吹かせようとする。

50代は30代のことを「何もわかっていない」と聞く耳持たず、
30代は50代のことを「時代遅れ」と関知しない。

あくまで例え話であるが、こういう類の話はどこの地域でもよく見聞きする光景だ。

これでは、いつのまにか主役(主観)が「まち」から「自分」に変わってしまってはいないだろうか。

蝶番(ちょうつがい)のように生きよう

まちは永続的に繁栄しなければならない。
栄えつづけるというより、変化し続けなければ生き残れない。人間と同じようないきものなんだと最近常々感じる。

人口が増えている時代、高度経済成長のころのようなまちにはもう戻れない。そして、現在ネットショッピング、大型ショッピングモール、SNSなどが全盛の時代。この時代もすぐ終わる。

一体次の時代はどんな時代なのか。そしてそれを担っていく感性は誰が持っているのか。間違いなく30代の僕らではない。10代20代の感性に耳を澄ませ、彼らと共存して自分自身の考えさえも柔軟に変化し続けることこそが大切で必須なことなのだろうと考えている。逆にまちをつくってきた先達にも敬意を払い、これからのまちづくりに参加してもらわなければ成り立たない。

ただ、SNS全盛のこの時代、あまりにも個人の主張がSNS独自のアルゴリズムで拡張されすぎている。全員が主役に見える。

でもそうじゃない。まちに主役はいない。いるのは蝶番のように脈々とまちを受け継いできた人々ばかりであり、誰がかけても今は成り立っていないのだ。

時代の変化に伴い、固定観念にとらわれず変わり続けられるまちが求められている現代。

尊重しあい、叱咤激励しあい、高められるような関係を保ちつつ、みなが蝶番のように前世代と後世代の架け橋になりつづける意識をもった個人の関係をつくることこそが、時代の要請にあったまちづくりができる一つの大きな要素になるのではないかな、とかそんなことを思ったりしている夜であります。


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