140ちゃん

感想文や考えを140字以内で述べてます。 それはひとときの戒めや慰めを目指して。 …

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感想文や考えを140字以内で述べてます。 それはひとときの戒めや慰めを目指して。 「柔軟な好奇心に満ちた、求心的かつ執拗な精神」 が座右の銘です。

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『フーコー入門』を読んで

本書は今日に至るまで生きてきた私を優しく抱擁した。 しかしそれは、 あの温もりに浸り潤ける私を騙すかのように、 現在の通念と訣別を強いる舞台へと場所を移していた。…

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2年前
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『殺人犯はそこにいる』を読んで

140ちゃん
11時間前

『躁鬱大学』を読んで

また同じ感覚だ。 知らないところで何か楽しそうなことをしているのを感じる。「自分にもできるだろうか?」 そしておそらくできることを学んだ。 それで大きく変化させる…

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4日前
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『めくらやなぎと眠る女』を読んで

目を瞑りたくなるときに、どうしようもなく読みたくなる。寂しさで寄り合うように。 心情や掛け合いが日常的だから、自分の理屈に当てはめたくもなる。けれどもあえて傍観…

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5日前
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『妻に捧げた1778話』を読んで

憧れ、思惑、疑念、愛慕、称賛。そんなものを取っ払い、残るのは、良い事実。 「そんなことが可能なのか」という驚きと含み笑い。まさしく、人間によって鼓舞される時。 …

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5日前

『あなたに似た人Ⅱ』を読んで

本当に良いものは言葉に表せないのではないか。 いや、継ぎ接ぎで表すことは辛うじて可能であるかもしれない。だが単語として存在するのか…。 というのは、その体験があ…

140ちゃん
7日前
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『あなたに似た人Ⅰ』を読んで

やや誇張気味の表現が小説の中では馴染むのだろうか。どの人物に対しても何かしらの愛着が生まれた。 その愛は一種の優越感から生まれたのかもしれない。常識から外れた場…

140ちゃん
10日前
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『ハツカネズミと人間』を読んで

欧米の小説を読むのも、文章を声に出して読むのも初めてだった。時間をかけて、ゆっくりゆっくりと物語を動かしたいのなら適しているし、飛ばしてなんか読めやしない。 相…

140ちゃん
12日前
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『小説家という職業』を読んで

私は普段から考えていないのではないのだろうか。思いつくことがあってもそこから展開し続けることはない。 ただ思い出せないだけかもしれないが、このように文章を書いて…

140ちゃん
3週間前

『史上最強の哲学入門』を読んで

誰もが個人的真理の追究を、哲学を構築し始めるとしたら…。そこに理解や批判、それ以上のことは必要だろうか? 戯言なんだろうか。小難しいことは置いておき、自分を最優…

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3週間前
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『面白いとは何か?面白く生きるためには?』を読んで

似た内容の本を読んでいると、いい加減に腰を上げることとなる。自分の言い訳が一辺倒で、嫌気がさす。それを払拭するために。 いつもと違う行動してみると、抽象的な内容…

140ちゃん
3週間前

『苦しい時は電話して』を読んで

時間の使い方、暇と退屈、何かを作ってみる。 自分が触れてきたもの、現在触れているものが商品の一種であったから分かりにくかった。 そこから現実を一変させようと執拗…

140ちゃん
1か月前

『自由をつくる自在に生きる』を読んで

「なるほど」と思うことがあっても、何に反応しているのかわからないことが多々ある。 そこで言語化など記録をつけないのだから、その瞬間瞬間が後々に役立つのかすらわか…

140ちゃん
1か月前

『孤独の価値』を読んで

エッセイとは気楽でいいものかもしれない。 どこから引用してくる必要もなく、思いついていたこと、気づいたことをまとめていけばいいのだから。誰かが裏付けることも要さ…

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1か月前
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『現実脱出論』を読んで

跳ねた泥が固まり始め、疲弊し切った顔で互いに握手する感覚。 話すことなんて到底ないし、いらないもので溢れている。論理的でなければ合理的でもない。 だがその先に何…

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『学び続ける力』を読んで

なかなかに考えることがコロコロと変わる。 読書に対しての考えだって例外じゃない。 ふと、現実逃避のために読んでいるのだと気づき、少し驚いた。 とはいえども、ここで…

140ちゃん
2か月前
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『フーコー入門』を読んで

『フーコー入門』を読んで

本書は今日に至るまで生きてきた私を優しく抱擁した。

しかしそれは、
あの温もりに浸り潤ける私を騙すかのように、
現在の通念と訣別を強いる舞台へと場所を移していた。

そこで私は憤りながら、感涙せざるを得なかった。
「苦心して生きてる私の意義は何?」
その明確な答えを、この手に収めたからである。

『躁鬱大学』を読んで

また同じ感覚だ。
知らないところで何か楽しそうなことをしているのを感じる。「自分にもできるだろうか?」
そしておそらくできることを学んだ。

それで大きく変化させることはできないだろう。
というか、変化させるべきではない。
だからやることにした。
全く辻褄が合わなくてもやらなくては。くたばる。

『めくらやなぎと眠る女』を読んで

目を瞑りたくなるときに、どうしようもなく読みたくなる。寂しさで寄り合うように。

心情や掛け合いが日常的だから、自分の理屈に当てはめたくもなる。けれどもあえて傍観者になる必要があるのかもしれない。

無目的の最中であっても蝶を見つけたら追ってみるのだろうか。もしそれが悲劇を呼ぶとしても。

『妻に捧げた1778話』を読んで

憧れ、思惑、疑念、愛慕、称賛。そんなものを取っ払い、残るのは、良い事実。
「そんなことが可能なのか」という驚きと含み笑い。まさしく、人間によって鼓舞される時。

意識するしないに関わらず、忘れてしまうのだ。
「私たちはどこまでいけるのか」ということを。
近づいてみたいものだ。計画を立てて。

『あなたに似た人Ⅱ』を読んで

本当に良いものは言葉に表せないのではないか。
いや、継ぎ接ぎで表すことは辛うじて可能であるかもしれない。だが単語として存在するのか…。

というのは、その体験があまりに行き渡っていないからだ。こっそりと作るわけにもいかない。

という風に展開していけることを教えてもらった。
本当に良いもの。

『あなたに似た人Ⅰ』を読んで

やや誇張気味の表現が小説の中では馴染むのだろうか。どの人物に対しても何かしらの愛着が生まれた。

その愛は一種の優越感から生まれたのかもしれない。常識から外れた場所・もので遊ぶが、そこには常識的な心理が這っている。そして愚かしく振る舞っているように見える。眺めているだけで愉快なのだ。

『ハツカネズミと人間』を読んで

欧米の小説を読むのも、文章を声に出して読むのも初めてだった。時間をかけて、ゆっくりゆっくりと物語を動かしたいのなら適しているし、飛ばしてなんか読めやしない。

相対的に時間の流れを調整できるのがいい。
何本もの可能性を同時に流していくのがいい。
詩の中から水を引いてきているのもまたいい。

『小説家という職業』を読んで

私は普段から考えていないのではないのだろうか。思いつくことがあってもそこから展開し続けることはない。

ただ思い出せないだけかもしれないが、このように文章を書いている時の方が、考えている気がする。

そもそも、考えたいと思っていない。
考えさせられることの方が多い。「暇と退屈」は、まさに。

『史上最強の哲学入門』を読んで

誰もが個人的真理の追究を、哲学を構築し始めるとしたら…。そこに理解や批判、それ以上のことは必要だろうか?

戯言なんだろうか。小難しいことは置いておき、自分を最優先し、その余力で協力していく。

創造には仮定を、現実には疑いを。
そのズレの中で行動を続けるのは難しくも、価値があるのだろう。

『面白いとは何か?面白く生きるためには?』を読んで

似た内容の本を読んでいると、いい加減に腰を上げることとなる。自分の言い訳が一辺倒で、嫌気がさす。それを払拭するために。

いつもと違う行動してみると、抽象的な内容をなぞっていることに気づく。そして一人で悦に入る。

自発的に利己的な行動を採っていると、やはり行き着くは先は利他的なのでは。

『苦しい時は電話して』を読んで

時間の使い方、暇と退屈、何かを作ってみる。

自分が触れてきたもの、現在触れているものが商品の一種であったから分かりにくかった。
そこから現実を一変させようと執拗になっていた。

一銭にもならないことは本当に無駄だろうか。
創造の過程に自分以外が必要になるのだろうか。

ただ分からなかったのだ。

『自由をつくる自在に生きる』を読んで

「なるほど」と思うことがあっても、何に反応しているのかわからないことが多々ある。
そこで言語化など記録をつけないのだから、その瞬間瞬間が後々に役立つのかすらわからない。

「暇と退屈」に対する非一貫的な手段をあてもなく探している。そこには過去の経験や慣習、常識がいらないから削ぎ落とす。

『孤独の価値』を読んで

エッセイとは気楽でいいものかもしれない。
どこから引用してくる必要もなく、思いついていたこと、気づいたことをまとめていけばいいのだから。誰かが裏付けることも要さない。

この点だけにとどめるのなら、自分のことを比較的簡単に表しやすいだろう。
かなり自分に利がある表現方法ではないだろうか。

『現実脱出論』を読んで

跳ねた泥が固まり始め、疲弊し切った顔で互いに握手する感覚。

話すことなんて到底ないし、いらないもので溢れている。論理的でなければ合理的でもない。
だがその先に何があると言うんだろう。

伝わらないと言うことが正しさを帯びるなんて。
いつもそうだった。隠したりなんかしていない。何も違わない。

『学び続ける力』を読んで

なかなかに考えることがコロコロと変わる。
読書に対しての考えだって例外じゃない。
ふと、現実逃避のために読んでいるのだと気づき、少し驚いた。

とはいえども、ここで言う「現実」なんてたかが知れている。「どうやって生活していこう」ぐらいだ。

もしかしたら自分で考える必要もないのかもしれない。