「迎合」が生きにくさの原因
私は仕事柄(役割柄?)、生きにくさを感じる人間と出会うことが多い。
生きにくさを抱えていない人間などいるのだろうか、と思うほどに、うまく社会でやっているように見えて、自分の感情や意思を押し殺している人は山ほどいる。
生きにくさとは、迎合の結果である。
だから迎合することから卒業すれば、生きにくさは無くなる。
社会や集団に合わせるのは大切なことであるが、合わせることと、迎合することは違う。
迎合とは、自分の考えを曲げてまで相手の意に従って気に入られようとすることだ。自分の考えを曲げずに協調することもできるはずなのだが、どうやら難しいようだ。
ここで知っておいてほしいことがある。自分の持っている考えが、他人と違っても、それは他人を否定することにはならないし、他人があなたと違う考え方でも、あなたが否定されたわけではないということだ。
このことが分からない人間が、自分は傷つけられたと感じて、お返しに他者を攻撃する。
例えば「嫌々働くのは時代遅れだ」と私は思っているが、嫌々働いている人間を否定しているわけではない。
しかし否定された気がするというのは、その言葉がその人間を否定したのではなく、その人間がその考えに同意し、自分で自分自身を否定したのだ。
もしそうなら、好きなことを仕事にするべく準備をすべきだろうが、そうできないジレンマがあって、自分を否定してしまう。
だから自分の価値観を披露しておきながらなんだが、簡単に同意してはならない。
もしあなたが嫌々働いてる現状であったら、あなたには嫌々働く以上に大切なことがあって、そのために嫌々働くことを選んでいるのだから、それを誇りに思えるくらいまで自分を正当化すべきである。というか、だからこそその生き方を選んでいるわけであって、必ず正当化できる論理的な根拠があるのだ。
「何を言っているんだ。嫌々働くのが仕事というものだろう」という価値観なら、存在が脅かされない限りはぶつかることはない。考えが違う者とは交わることがない。次元が違うのだから。
鋭い人間なら既に気づいているだろうが、衝突が起こるのは、価値観が同じときだ。
迎合とは、相手の考えに阿(おもね)り、従うことである。基本的に人間の考えというのは、その者自身の生き方を正当化させるためのものなのだから、その価値観の物差しでは相手が一等賞になるように設計されている。
だからそこにあなたが同意した瞬間、自分自身が下位の存在となり、居心地が悪くなるのだ。否定された気持ちになるのだ。
あなたは幸せにならなきゃいけないわけではないし、目標を達成しないといけないわけではない。人より優れている必要はない。人より稼ぎが良くないといけないわけではない。自由でいなければいけないわけではない。周りから慕われていないといけないわけではない。
そういったものを誇る人間はなんだか薄いと、一蹴できる自分であれ。