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同じ食卓を囲むということ

食事を共にするということは、とても深い意味があります。同じものを食べることで、同じ味覚を共にすることで、「共感」を強く感じることになります。そして食事という体験を代替するものが存在しないことが、他社との結びつきを明確にさせます。お互いの心に距離がある場合や、仲たがいをしている人を繋げる根源的な方法、それが食事なのです。

池袋の梟書茶房で手にしたシークレットブック。中身はもちろん、署名も装丁も隠されていて、本を選ぶ手がかりは、店主・柳下恭平さんのお勧めコメントのみ。手にとってみると、どの本も「気になる…読んでみたい…」という気持ちがむくむく湧いてくる。これぞ、言葉ひとつで本との新しい出逢いをくれる書店員さんのなせる技!

2000冊あるというシークレットブックのなかから(すべてのコメントを読んだわけではないけれど)私が選んだのは、上記の言葉が添えられた1冊。

中身は、大好きで何度も観ている映画の原作本だった。求めてはいたけれど、自分ではたどり着けなかった本との新しい出会いにただただ感激。この1冊を読み終えたら、次のお勧めナンバーに進んでみようと思う。

こうして限られた情報のなかで本を選ぶことで、自分が大事にしていることや求めていることに、改めて気づかされた。

「誰かと食事を共にすること」は、私が人生、というと大げさだけれど、日常のなかで大事にしていることのひとつ。

ふと、自分がしあわせを感じる瞬間(とき)に思いを馳せてみると、家族や友だち、たいせつに思う人たちと、食卓を囲む風景が浮かぶ。ひとりでいるのも好きだけれど、食事はやっぱり誰かと共にし、一緒に味わいたい。

そう思う原点には、自分が生まれ育った「家族の食卓」がある。

愛知の片田舎で祖父、祖母、父、母、妹ふたりと7人家族で育った我が家の食卓はいつも賑やかだった。同じ敷地内に従姉妹家族が、隣に再従兄弟家族が暮らしていたので、一緒に食事をすることもあり、ひとり、いや、少人数で食事をすることがほとんどなかった。

いわゆる地縁・血縁でつながる大きな家族のようなものだけれど、閉鎖的でもなかったし、ほどよい距離も保っていたので、決して私にとって居心地の悪い場所ではなかった。

一緒に住んでいるのは母方の祖母(祖父は他界)だが、父方の祖父母も近所に住んでいるのでよく遊びに来る。

実家ではよく庭でBBQが開催され、親戚や近所の人、子どもたちの友だち含め30人以上が集まることもある。

実家BBQ定番のピザ。人数が多いので枚数も多い。20枚くらい……?

父の会社の仲間、母のバレー仲間、妹のバスケ仲間、私の小中校の友人……それぞれが企画したBBQに家族が交じることもあり、気づけば我が家はいつも食事を囲んで賑わっている(そのなかで私たちは、家族には見せない、知っているようで知らない家族の側面を垣間見ることもある)。

とにかくよく、人が集まる家なのだ。

父と母がアウトドア仲間だったこともあり、春には桜と菜の花が咲く近所の河原でいなり寿司を中心としたお弁当を食べ、夏は庭でBBQ(幼い頃はキャンプ場や海へ出かけていた)、秋は七輪を出して……外で季節の食卓を家族で囲む機会も多い。

秋の食卓。七輪で秋刀魚、栗、焼きおにぎり、ついでに芋も焼いて……

年末のお餅つき。水餅はその場で食べて、あんころ餅は近所にも配る。

大学で上京して実家を離れてからも、時に友人を連れて、今は夫や娘と、なんだかんだ季節ごとに帰省をしている気がする。

おしゃれでも、丁寧な暮らしでもないんだけれど、実家には四季に寄り添った賑やかな食卓があった。

我が家へ遊びに来る友だちに「徳家(実家)は仲がよいよね」と言われることがあるけれど、家族の中心に、家族の枠を超えて囲む「家族の食卓」があるからだと思う。

季節に寄り添う賑やかな家族の食卓。

それがあたり前でないということに、ひとり上京をして、結婚をして子どもを生んで、自分の家族を築くようになって気づいた。

現在、夫と娘と3人で、東京で暮らす私はいわゆる核家族世帯。それでもやっぱり、賑やかな食卓を囲みたい。だから、夫と私それぞれの会社の同僚や友人たちをよく家に招く。そのうち娘も友だちを連れてきてくれるかな。

娘の初節句は、夫の会社の同僚たちとお祝いをした。

地縁や血縁関係なく、そうして一緒に食卓を囲みながら、家族を拡張していけたらいいなーと思うのです。

ということを、1冊の本を手にしたことをきっかけに考えました。私は今からひとりで昼ごはんを食べるけれど。

読んでくださりありがとうございます。とても嬉しいです。スキのお礼に出てくるのは、私の好きなおやつです。