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「老害」という言葉

 老害という言葉はよく耳にするでしょう。一回も聞いたことないくらい育ちのいい人もいるかもしれませんが。
 飲食店で若い店員に得意げに怒鳴り散らしている老人を見た時。ABEMAでさんざん人の話を遮ったくせに軸の無いことをしどろもどろに話しだすコメンテイターを見た時。何一つ中身のある答弁をできない内閣総理大臣をテレビで見た時。私たちはつい頭の中で彼らをラベリングします。「老害かよ」と。

実情


 老人に問題のある人が比率として多いのは正しいでしょう。客観的なデータ(※重要)として、老いてゆくにしたがって脳の中の(特に衝動的な)欲求を抑える部分(前頭葉等)の機能が弱っていくというのは示されています。そして実際…あくまで私のたかだか17年強の経験則では…老人のほうがそういう人が多いように感じます。あくまでも個人の感想であることを再三注意しておきますが。けれど、老人の中には依然明朗快活で、他人の言葉に柔軟に耳を傾ける人もいます。今の若い人たちとなんの問題もなく議論をし、文字通り知の巨人としてむしろみんなに慕われるような人が。

 この違いがどこから来ているのか論じるつもりはありません。他人を尊重する意識づくりを小さな頃からしていたかどうか、とかでしょう。本筋には関係ありません。というか私はまだ17才なのでそんなこと全然分かりません。
 問題なのは、その問題な人たちを「老害」という言葉で片づけてしまうことの無意味さ、そしてそれらが招く人々の対立です。

「老害」という言葉の中身の無さ


 そもそも、自分の間違いを指摘されて怒る人は大抵昔からそうでしょう。自分で「年を取ると自分の間違いを認めづらくなるのよ…」なんて言っている人は、自分の間違いを訂正することなく他人からの非難を合法的にかわせるワイルドカードを振りかざしているだけです。
 たしかに、老いることによって人は自分の間違いを認めづらくなり、他人に害を及ぼす存在になる可能性はたしかに上がります。しかし、その人の幼少期を知っているわけでもないのに、その人の問題な行動が老化によって引き起こされているはずだなんて決めつけるのはかなり乱暴です。問題行動をする老人の姿を見てわかるのは、「その人が老いている」事と「問題行動を起こしている」事だけです。そんな人を見ただけで「老害だ!」と叫ぶのは、ツイッターで無礼な発言をする女性に対して「女害だ!」と言うのとほとんど変わりありません。
 すなわち「老害!」と誰かが誰かに言うとき、その発言者は「あなたは老いている異常者だ!」と言っているにすぎません。老いている?そんなこと見れば誰でもわかります。

社会に蔓延する「老害」の意識


 問題行動をとる老人を見かけた時、どうしてわざわざ本質を外した「老害だ!」という台詞を選ぶのか。その時本当は彼の頭に浮かんでいたであろう台詞、「キチガイだ!」とどうして言わないのか。(言えと推奨しているわけでは全くありません。)
 一つの理由はもちろんいうまでもなく、人間は本能的に特定の集団に属する人を過度に一般化する傾向があるからです。ですがまた別の理由に、
『「キチガイ」という言葉はなんだか使うと周りから非難されるし汚い言葉遣いだけど、「老害」は周りから何なら賛同されるし、なんだか論理的っぽいから使っちゃお….』。
というものがあると思います。これは個人単位ではなく社会全体の問題です。いかに社会全体に老害という言葉が当然のように染みついているかが窺えます。

すでにかなり二分化されている社会


 引用は好きじゃないのですが、どうしてもここで引用したい言葉があるのでさせてください。

「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの(無名人 名語録)」

 これを言った人が本当に言おうとした意味は私には図りかねますが(誰の言葉かは不明なので)、現代風に解釈するなら、文字通り「愚かに見える若者も老人も、それはあなたのかつての姿でありこれからの姿である。だからバカにするべきではない。」ということになるでしょう。

 世の中の老人が「老害」と言われるような存在ばかりであるということは、私たちもほとんどは将来老害と言われる存在になるということでしょう。それはしょうがない事です。先述の通り、生物学的な変化もあります。それに、50年も生まれが違えば価値観なんて変わるに決まっています。変容を受け入れる事が云々以前に、価値観同士の衝突は絶対にあるでしょう。
 これらのことから、ただでさえ老人と若者は本質的に互いに相容れないものであるはずです。理想論では互いに歩み寄って理解するべきですが、そんなこと言ってもしょうがないです。

分断を加速させる簡単な言葉


 しかし、その必然的な分断に歩み寄るどころか、より深いものにするのが「老害」という言葉です。再度言いますが、分断があるのはしょうがないです。しかしそれを深くするのは全く生産的ではありません。この言葉で老人と若者はよりいがみ合う。若者は中身の無いただの悪口を投げつけ、老人は若者に耳をもっと傾けなくなる。
 特に日本は少子高齢化が尋常じゃなく進んでいます。政府のやる気のない少子化対策はことごとく失敗しています。そのうち生産年齢人口が高齢者の人口を下回ります。必然的に私たちは高齢者と向き合うことを強いられます。
 そんな中、いがみ合ってどうしようというのでしょう?65歳以上は自動的に殺処分される機構でも作るのでしょうか?いずれ自分たちも65歳になって死ぬのはいいのでしょうか?(確かに私は65まで生きれば十分ですが。)国民の多くは賛同しますか?国民の同意も得られなければそれはナチズムとやってることは一緒です。何ならそれよりひどいです。

結論


 話がそれましたが、結論として、老害という言葉は本質的に中身がない上に高齢者と若者の分断をより深くするものです。せめて、せめて的を射た発言にしましょう。某ヨットスクールの校長とかに「老害」とかいう安直な言葉を投げかけるのではなく、「体罰を受けても意味がないなんて言われたら自分の受けてきた仕打ちが報われない。だから体罰を他人にしながらその正当性を主張することで、苦しめば何か得られるという神話を必死に自分に信じ込ませているんですねかわいそうに。」とかね。

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