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映画「新聞記者」のこと。そして、日本アカデミー賞のこと。

映画「新聞記者」が日本アカデミー賞を獲ったというニュースを、今朝TwitterのTLを見て知る。皆さんが快挙と言っている。まずは、私も「おめでとうございます」と、この映画を制作したスタッフ、キャストのみなさまに申し上げたい。

今は、ウィルス感染問題で、安倍政権が形だけの動きで、本質的に機能していないこの時期に、この映画を日本人に思い起こさせてくれるニュースは嬉しかった。ちょうど、一部の映画館で凱旋上映をやっている時。また、この週末に新しい観客を産んでくれることを期待する。ビデオで観るのもいいが、この映画、映画館で没入して観るとホラー映画に見えてくる。

「新聞記者」という映画は、普通に今の日本の政権のあり方にNOという映画である。昔ならあたりまえにできた映画が、今作ると「よく、これを作ったね」という感想になっているのを、公開時に虚しく思った。元来、映画というものは、エンターテインメントとして国や政府を批判して当然のメディアであったはずなのだ。それが、ある一定の庶民の声であるなら、尚更である。そういうこともあり、いまだに映画人は左だとか、だから某女優は共産党なんだとかいう方もいるが、私の意見は「バッカじゃないの」の一言である。右であろうと左であろうと、自分の利権のために国を利用するのはNOである。

観た方の感想によく出てくる、ネットで世論をコントロールしようとする田中哲司が「この国の民主主義は形だけでいいんだ」というセリフは洒落にならない爆弾的なセリフである。そのセリフの後、主演の松坂桃李は、横断歩道越しにシム・ウンギョンに何か言おうとする。多分、それは松坂のポジティブな言葉ではないように私には思えた。そうして、この映画は、日本が今、こうやって停滞しているということを示しながら終わる。

日本アカデミー賞の会員の皆様は、ある意味、この投票によって、こういう映画がもっとあっていいという意思を示してくれたのだと思う。ちょうど、混乱のその時にこの結果を聞けて、私も救われた気はした。

だが、これをアメリカのアカデミー賞を「パラサイト」が獲ったことと同義に考えて、日本映画も変わっていく感じと受け止める意見があるがそれはお門違いだと思う。アカデミー賞という世界中が注目される賞で韓国語の映画が賞を獲ったということは、すなわち、アメリカは、アカデミー賞が映画の世界一を決める賞だと宣言したような物なのだ。(俺たちがメジャーだということである)

それに対し、日本アカデミー賞とは、日本国内マーケットだけを考えて制作し続けられる日本映画の、それも映画人が発起人として制定されたというよりは、電通や日本テレビなど企業の利権のために作られた賞である。初期に黒澤明が、それを批判し、授賞を拒んだこともよく知られている。そんな賞とアメリカのアカデミー賞を比較すること自体が問題外である。

そう、日本アカデミー賞は一部で(私も含め)権威など認めない人がいる中で続けられてきた。この賞ができた1978年、まだ私が学生で、熱く映画を見始めた時期だった。だから、先に書いたような批判がありながらも、このイベント風景を楽しみに見ていた気がする。そして第4回で鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」が作品賞と監督賞を獲る。これは劇的だった。いわゆるメジャーな映画会社が作る映画しか獲ることのできない賞だと思っていたからだ。一度は映画界から負われた監督が、シネマプラセットという掘立小屋で上映した映画がトップに立ったのだ。私も、それは嬉しかったのを覚えている。

そんなことが、何度かイレギュラーでありながらも、この賞はいまいち映画産業自体には貢献せず、今回で43回目を迎えたわけだ。そう考えると私も歳をとるし、映画もシネコンでのデジタル上映が主になるように様相を変えている。

しかし、日本映画のコンテンツ自体はあまり様相を変えず、中途半端に大金使った作品と、低予算のインディーズ的な映画の二つの世界に真っ二つに分かれている。ちょうど、昨年今頃公開になった「半世界」の坂本順治監督が、「真ん中のものが一切なくなった」とラジオでおっしゃっていたのが記憶に残る。

そう、ビジネスとして、どうにか稼げるものを作ろうとする業界なのである。だから、高校生向けと思われる漫画やラノベ原作のような青春恋愛ものの多いこと。そして、劇場用アニメも供給オーバー気味である。そういう意味では、「天気の子」が最優秀アニメーション賞を獲ったが、本当のところ、それ以外のアニメ作品を見ている会員も少ないのが現実だと思う。映画業界とは違うアニメ業界があるのだ。

それでも、昨年は日本では映画は史上最高の封切り本数を数え、観客数も1971年を越える勢いであった。つまり、この日本アカデミー賞が制定されてから、最高の観客が入り、そこで選ばれた映画が「新聞記者」ということなのである。

でも、もう一方ではキネマ旬報と映画芸術のベストワン作品が「火口のふたり」で同じになるという不思議な快挙もあったり、以前より、観る人観る視線で大きく評価が変わる世界になってしまったということも忘れてはいけないと思う。

そういう賞獲り競争やベストテンなどという古臭い風習には、私は全く興味もなく、批判する気もないが、日本映画を愛するものとして、今回の「新聞記者」という映画がこういう賞に輝いたことで、社会的なものに意見する映画がより多く排出でき、そこにお客様が集まる日本になればいいと思っている次第であります。


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