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「エール」最後は音楽のドラマになっていて、安心して見ていられた。それは、明るい歌が広がる未来へのエールにはなったか?

感染拡大、緊急事態宣言もあり、2ヵ月遅れて、連続テレビ小説「エール」は、26日に本編が終了。27日は出演者による古関メロディコンサートという異例のカーテンコールということなのだろう。とにかくも変則オンエアを乗り越えて、ここにあることは、スタッフ、キャスト共に一安心というところだろう。お疲れ様でした。

初回のミュージカル仕立てに、私は苦言を呈した。今も、その趣旨はよくわからない。そして、音楽家になる前半部、ことごとく音楽が上手く使われていないことに、このスタッフは「何が作りたいのか?」とよく理解できなかった。そんな中で、ドラマは、「弟子になりたい!」と岡部大がやってくるところで、撮影中断のため終了。

同じ時間に、もう一度リピートするという今までにないことが起こる。まあ、今年は、時間軸が色々に狂ってしまった人が多かっただろう。ドラマの撮影中断というのは、一般的に不穏なことしか考えられなかった。全てをリセットして勢いがなくなったりするからだ。

だが、このドラマについて言えば、中断がよかったようだ。後半は実に言いたいことも明確になり、戦争と戦後民主主義の時代に歌がどんな役目をになったかというテーマは、上手く紡がれていた気はする。

特に、ここでも書いたが、戦時下のインパール作戦が行われているビルマの描き方は朝ドラとしては、かなりの本気モード。飛んでくる銃弾に恐怖を覚える演出は、戦後を描く上でもインパクトが多く賞賛できるものだった。

そして、ひとりづつ立ち直っていくという描き方だったが、戦後の人々の立ち直り方はこんなだったのだろうなと思うところがある。何かのきっかっけで未来を見つけた人から、他人を起こしていったような感じ。そのグラデーションみたいな時間軸が上手く描かれていたと思う。

そして、菊田一夫とのコンビで、やってみたかった音楽の方向に誘われるのは、奇跡でも偶然でもなく、時代が古関裕而を呼んだということだろう。ドラマは、偶然の積み重ねを作ることで成立するが、実際の人生も振り返れば全て、同じように自分から呼び寄せているようなところがある。そんな空気感が心地よかった。

最終週は、娘の結婚の話を自分たちの巡り逢いに重ね、オリンピックのマーチを作る大仕事の中で主人公の音楽に対する哲学みたいなものが描かれていた。訪ねてくる野田洋次郎が、「頭の中にある音楽が、出すと消えちゃう」と言っていたが、まさに楽器を使わずに譜面に向かう古関裕而の作曲方法はそういうものだったのだろう。人が、AIと違うところは、妄想の中でものができていることなのだと思う。それを具現化できるのが天才と呼ばれる人なのかもしれない。オリンピック前に仲間が集まって歌うのが「高原列車は行く」である。この歌は古関メロディーの中でも爽快な歌だ。そして、オリンピックマーチにつながるようなメロディーであったのかもしれない。酔い潰れた後で、「できた」という主人公の描き方がよかった。

そして、昨日のほぼ最終回。主人公に、「音楽を作ってください」という青年に、時代の変わり目を話し、そこに自分を音楽の道に誘った、志村けんの手紙の話を挿入する。志村が嫉妬から彼をレコード会社に誘ったことが語られる。主人公の音楽人生は、さまざまな人々の応援や嫉妬の中で成就したものだ。それは、生まれ出る全ての人も同じだろう。今日、嫌な上司に叱咤されたことも、人生のエールなのかもしれない。そう、生きている限り、前向きに考え、努力し続ければ、誰かが応援してくれている。そんなことが頭の中に想起されるドラマだった。

そして、古関裕而のメロディーは戦前、戦中、戦後を通じて、日本人にエールを送り続け、彼がいない今も力強くさまざまな人を応援している。とにかくも、古関裕而をモデルにドラマを作ってくれたスタッフ、キャストに感謝いたします。

最後に志村けんさんを追悼する形にしたところ、音さんを死なさずに海に連れて行ってタイトル画に戻したのも良いセンスでした。主人公からの最後の挨拶って、こういうドラマでは結構嬉しい感じはしますね。また、Greeeenの主題歌も、じっくり聴くと味わい深い。2020年、パンデミックの中で流れた曲として記憶に残したいと思います。


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