太平記 現代語訳 15-4 新田義貞、京都を奪回するも、坂本へ撤退

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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園城寺(おんじょうじ)を守っていた足利(あしかが)側勢力を首尾良く攻め落とせたので、「長旅に疲れた人馬を1日、2日ほど休めた後、再び戦をしよう」ということになり、北畠顕家(きたばたけあきいえ)は坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ引き返し、その軍団2万余騎も彼の指示に従った。

新田義貞(にったよしさだ)も、坂本へ帰ろうとしたが、舟田経政(ふなだつねまさ)が、馬を控えていわく、

舟田経政 殿、「戦において利を得んと欲せば、勝利に乗じ、敗走する敵を追撃するに限る」と、言うでしょ! 今度の戦にかろうじて生き残り、馬を捨て鎧を脱ぎ、命ばかりは助かろうと逃げていく敵軍を追って、京都へ押し寄せていったら、いいんじゃないでしょうか。臆病神に取り付かれた大勢の人間にひっかきまわされて、敵サイドの他のやつらもきっと、ガタガタになっちゃうでしょう。

新田義貞 うーん。

舟田経政 敵側が混乱してるすきにね、我が方は分散して、敵陣内に潜り込み、攪乱するんです。こっちに火を掛け、あっちにトキの声をあげ、縦横自在にかけまわって、てな感じでいったらね、こちらの兵力がどれくらいなのか、敵側も分からないだろうから、ますます、混乱していくでしょう。そうなりゃ、足利兄弟の近くまで行って、勝負を一気につけてしまえるじゃないですか。

新田義貞 うーん!

舟田経政 いったん逃げの態勢に入っちゃったら、もう敵側は、何の抵抗もできないでしょう。ここはとにかく、いっちょ、追撃かけてみません?

新田義貞 いやな、おれも、そんな風な事、考えてたんだ。よくぞ言ってくれた。よし、追撃してみよう。

義貞は、旗の緒を下ろして馬を進め、新田一族5千余人とそれに従う3万余騎は、彼に続いて、馬に鞭を当て、京都へ向かって敗走する足利サイド・細川軍への追撃を開始した。

細川軍は、はるかかなたまで行ってしまっていると思われたが、敗走する側は大軍ゆえ進行が遅く、追撃する側は小勢ゆえ、スピードは速い。山科(やましな:京都市・山科区)のあたりで、新田軍は細川軍に追いついた。

由良(ゆら)、長浜(ながはま)、吉江(よしえ)、高橋(たかはし)が、真っ先に進んで、細川軍に接近した。

自軍よりも数が多い敵軍をあなどってはいけない、ということで、相手が反攻してこれそうな広い所では、接近せずに遠矢を射掛け、トキの声を上げるだけで、激しく迫らず、道が狭くて行く先が険しい山道となっている所では、高所から懸け下りて襲いかかり、ひっきりなしに矢を射て、切り伏せていく。

このような、新田サイドの巧みに追撃により、細川軍は一度の反攻もできず、我先に逃走していくばかりである。

負傷者は、倒れ伏したまま、馬や人に踏み殺され、馬から離れた者は、もはや逃走することもできず、腹を切っていく。彼らの死骸は谷を埋め溝を埋め、追撃戦を展開する新田軍の前に、道を平らかにしていくかのよう、まるで輪宝(りんぼう:注1)が山谷を平らげていくかのようである。

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(訳者注1)Cakra。インドにて帝王の標識として用いられる宝器で、宇内を統一する大王転輪聖王 Cakravarti-rāja は宿福によってこれを感得し、王遊行の際は必ずこれが前進して地を平坦ならしめ、山岳岩石を破砕し、諸民を制伏すという。(仏教辞典 大文館書店)
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「園城寺で戦闘開始!」との報告を受けていた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、そちらの方角から黒煙が立ち上って、天を覆っているのを見て、

足利尊氏 これはいかん、細川たち、やられてしまったか。おぉい、すぐに、援軍を送れ!

尊氏は、自ら三条河原まで出動し、陣ぞろえを行った。

その時、粟田口(あわたぐち:京都市・左京区 注2)方面から馬煙を立てて、4、5万騎ほどの軍勢がやってくるのが見えた。

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(訳者注2)「京の七口」の一。山科から西進して東山の峠道を超えて京都盆地へ下った所にある。地下鉄東西線・蹴上(けあげ)駅の付近から粟田神社へかけての地域である。そこからさらに西へ進むと、三条大橋がある三条川原に到達する。
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足利尊氏 あれは、どこの軍だ?

足利軍メンバーA はい・・・(やってきた軍を凝視)・・・園城寺へ行ってた、細川軍に所属の四国・中国勢ですね。

足利軍メンバーB よっぽどてひどく、やられたようですねぇ。無傷の者なんか、一人もいやしねぇ。

足利軍メンバーC みんな、鎧の袖や兜の吹返しに、矢の3、4本は突き刺さってるじゃん。

足利尊氏 突き立った矢を折る余裕も、無かったんだろうな。

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新田義貞は、2万3千余騎を3つに分けて、

 第1軍団を、将軍塚(しょうぐんづか:京都市・東山区)の上に配置し、

 第2軍団は、真如堂(しんにょどう:左京区)の前方に待機させ、

 第3軍団を、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の前方から二条河原へと展開して、

合図の烽火を上げさせた。

義貞は、華頂山(かちょうざん:東山区-山科区)に登り、眼下に足利陣を見渡してみた。

足利サイドの兵力は膨大であった。その陣営は、北は河合森(かわいのもり:左京区・下鴨神社境内)から、南は七条河原あたりまで展開しており、前の馬の後ろ足には後の馬の前足が接し、ある者の鎧の袖には隣の者の鎧が触れ、というような状態で、東西南北40余町の間、立錐の余地もなくビッシリと密集している。

弓を杖がわりに突きながら、義貞は指示を出した。

新田義貞 みんな、よく聞け! 敵の兵力と我が兵力を比べてみたら、大海の中の一滴の水、牛の大群中の毛1本ってとこだろうよ。普通の方法で戦ったんじゃぁ、とても勝てやしない。

新田義貞 だからな、こうしよう。まず、互いに顔をよく知り合った者どうしで50人ずつのグループをいくつか作る。そいで、そのグループメンバーは、笠標(かさじるし)を捨てて旗を巻き、敵陣の中に紛れ込んで、あっちこっちに潜んで、そのまましばらく待機する。ようは、敵陣撹乱部隊だな。

新田義貞 将軍塚にいるわが軍の戦闘開始にあわせて、総攻撃開始だ。それと同時に、撹乱部隊メンバーは、敵軍の前後左右に旗を差し上げ、馬をそこら中、走りまわらせろ。前にいたかと思えば、後ろへ抜け、左にいたかと思えば右へ回りってな感じでな、縦横無尽に敵陣をひっかきまわしてやれ。

新田義貞 そうすりゃぁ、敵の連中らは、わが方の撹乱部隊を味方だと思いこんで、同士討ち始めるか、さもなきゃぁ、大混乱になっちまって、退却し始めるか、このどっちかになるだろう。

古代中国の韓信(かんしん)のごときこの謀略に従い、新田軍各リ―ダーの配下から、それぞれ50人ずつが選抜され、合計2,000余騎の撹乱部隊が編成された。

部隊メンバーは全員、中黒の旗を巻いて紋を隠し、笠標を取って袖の中に入れ、園城寺から退却してきた軍勢のようなフリをして、足利サイド陣営の中に潜入していった。

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新田側がこのような謀略を仕組んでいるとは夢にも思わず、足利尊氏は、主要メンバーに対して、

足利尊氏 義貞は平地での攻撃を好む、と聞いていたが、今回は違うようだな・・・山を背にして、うって出ようとしている・・・おそらく、自軍の兵力の少なさを隠したいからだろう。

足利尊氏 あの将軍塚の上に陣取っている敵軍を、いつまでもあのままにしておいてはいかん。師泰(もろやす)、あの山の上まで懸け上がって、追い散らしてしまえ!

高師泰(こうのもろやす) はっ!

高師泰は、武蔵・相模の勢力2万余騎を率い、双林寺(そうりんじ:東山区)と中霊山(なかりょうぜん:東山区)から二手に別れて山頂を目指した。

これを迎えうつ新田側は、脇屋義助(わきやよしすけ)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、大館氏明(おおたちうじあきら)、結城宗広(ゆうきむねひろ)以下3千余騎。

優秀な射手600余人を選りすぐって馬から下りさせ、小松を盾に、高師泰軍に対して、さしつめひっつめサンザンに矢を射させた。

険しい山道にてこずる高軍団の者たちは、続々と、鎧を矢に貫通されて地に伏し、馬を射られて落とされていく。

高軍団にひるみの気配が出始めたのを見て、今が攻め時と、新田側3千余騎は一斉に、大山の崩れるがごとくに、斜面を下り、相手に襲いかかっていく。

高軍団2万余騎は、持ちこたえられずに、五条河原へさっと退いていく。この途中、杉本判官(すぎもとはんがん)と曽我次郎左衛門(そがじろうざえもん)が戦死。

新田軍は深追いせず、なおも東山を背にして、兵力のほどを相手に見せない。

このようにして、カラメ手方面から戦が始ったので、大手方面でも、それに呼応して、一斉にトキの声を上げた。

新田サイド2万余騎と足利サイド80万騎が、攻守入れ替わりながら、天地を響かして戦い始めた。古代中国の漢(かん)と楚(そ)の8年間の戦いを一時に集め、呉(ご)と越(えつ)の30度の戦を100倍にしてもなお、この両軍の戦闘の激しさに及ぶものではない。

新田サイドは、小勢ではあるが、みな心を一つにして、懸かる時は一度にサッと懸かって相手を追いまくり、引く時は負傷者を中に置いて守りながら静かに引いていく。

かたや、足利サイドは、人数は多いのだが、メンバーの心はみなバラバラ、攻撃も不揃いで、退却する時も友軍を助けず、それぞれの軍が自分勝手に戦っているだけである。

正午から午後7時までの間、60余回の両軍激突において、終始、戦況は新田サイド有利に展開していったが、足利サイドは人数が多いので、戦死者が出ても総兵力においての大きな減少は無く、退却するにしても、さほど遠くまでは退かず、ただ一か所に踏みとどまっていた。

その時、足利陣内に潜入していた新田サイドの敵陣撹乱部隊が、足利尊氏の前後左右に、中黒の新田家紋の旗を差し上げ、足利陣を乱し始めた。

足利尊氏 う? あれはいったい!

足利軍リーダーD おいおい、いったい、どうなってんだぁ?

足利軍リーダーE 敵はどこにいる?

足利軍リーダーF そこにいるのは新田軍の部隊だな、よぉし、かかれぇ!

足利軍リーダーG なんだなんだ、いきなり襲いかかってきやがったぞ、いったいどこの部隊だ、敵か味方か!

足利軍側メンバーH もうメチャクチャだぁ! いったいどれが敵でどれが味方だか、さっぱり分からん!

足利軍は大混乱に陥った。東西南北おめき叫んで、ただひたすら同士討ちを展開していくばかりである。

吉良(きら)家リーダーI 殿、ヤバイです!

足利尊氏 敵に内通してるのが、わが方にいたということか!

石塔(いしどう)家リーダーJ そうです、内通です。後ろから矢を射掛けてくる連中も、いるようですよ。

高(こう)家リーダーK (内心)こうなったら、いったい誰を味方と信じていいのか、さっぱり分からん。

上杉(うえすぎ)家リーダーL (内心)信じていいのは、わが身内、上杉家の者だけだなぁ。

このように、足利軍中には、互いに対する疑惑の念まで生じてしまい、高、上杉の人々は山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)方面への退却を、尊氏と吉良、石塔、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)の人々は、丹波(たんば)方面への退却を開始。

ますます勢いづいて足利軍を急追していく新田軍。梅津(うめづ:右京区)、あるいは桂川(かつらがわ)付近において、尊氏は3度も、もはやこれまでかと、鎧の草ずりをたたみ上げて、腰の刀を、抜こうとした。

しかし、尊氏の運は強かったようである。

日が暮れてしまい、新田軍が桂川から引き返していったので、松尾(まつお:西京区)、葉室(はむろ:西京区)の間の場所で、尊氏は馬を止め、のどの渇きを癒し、しばしの休息を取ることができた。

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細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、自らが率いる足利軍・四国勢メンバーらに対していわく、

細川定禅 戦の勝負ってもんは、時の運で決まることだ、だから、負け戦しちゃったからって、そうそう恥じなくってもいいんだ・・・と、一応、言ってはみるんだけどぉ。

細川定禅 今日のわが方の敗北は、我々に任されてた園城寺(おんじょうじ・滋賀県・大津市)の防衛に失敗した事から始った事だからな、これからいろいろと言われちゃうと、思うよぉ。「あいつらのせいで、こうなった」とか、なんとか、いろいろとなぁ。

四国勢メンバー一同 ・・・。

細川定禅 なぁ、みんな! 他の家の連中らを交えずに、我々だけでもって、華やかに一戦やらかして、名誉回復ってことにしないかい?

細川定禅 新田のヤツらは、まる一日戦って、もうくたびれちゃってるだろう。今から急襲かけたら、まともに戦えるとは思えない。

細川定禅 新田家以外の連中らは、きっと、京都や白川あたりの家々の財宝に目がいってしまってるだろう。あっちこっちに散らばってしまってて、一個所に集中していないだろう。

細川定禅 それにな、赤松貞範(あかまつさだのり)が、わずかの軍勢率いて、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:左京区)のあたりにいるんだ。あいつをむざむざ死なせるのも残念だしな。

細川定禅 さぁ、みんな! これから、蓮台野(れんだいの:北区)から北白川(きたしらかわ:左京区)へ進んで、赤松勢と合流して、新田軍を一モミしてみようじゃないの!

四国勢メンバー一同 よっしゃぁ、分かりましたぁ!

細川定禅 よぉしよし!(大喜びで)

定禅は、あえて尊氏に知らせずに、伊予(いよ)、讃岐(さぬき)勢の中から300余人を選抜し、北野(きたの:上京区)の後方から上賀茂(かみがも:北区)を経て、ひそかに北白川へ進軍した。

糺森(ただすのもり:左京区)の前で300騎を10方に分けて展開し、一乗寺下松、薮里(やぶさと:左京区)、静原(しずはら:左京区)、松ヶ崎(まつがさき:左京区)、中賀茂(なかがも:左京区・下鴨半木町 付近)など30余箇所に火を放ち、そこから更に、一条と二条の間に進んで、三箇所でトキの声を上げた。

定禅の推測通り、その夜、新田サイドは、京都、白川に広く分散してしまっており、一箇所に集中できる兵力が少なかったので、新田義貞と脇屋義助は、たった一戦にて敗北し、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ退却せざるをえなかった。

方々に分散していた新田サイドのメンバーらも、あわてて坂本めざして退却する間に、北白川あるいは粟田口付近で、舟田義昌(ふなだよしまさ)、大館左近蔵人(おおたちさこんくろうど)、由良三郎左衛門(ゆらさぶろうざえもん)、高田七郎左衛門(たかだしちろうざえもん)ら、新田軍の主要メンバー数百人が、戦死してしまった。

定禅は、すぐに早馬を送って、尊氏に勝利を告げたので、山陽、山陰両道へ退却していた足利軍メンバーはすべて、再び京都に帰ってきた。

新田義貞は、わずか2万の軍勢でもって、足利尊氏の80万騎を懸け散らし、細川定禅もまた、たった300余騎をもって、新田軍2万余騎を追い落としたのである。まさに、古代中国の項羽(こうう)のごとき武勇、張良(ちょうりょう)のごとき謀略、二人とも、すばらしい武将であると、言えよう。

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