太平記 現代語訳 21-2 佐々木道誉、皇族に対して狼藉

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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当時とりわけ、時流に乗り、その栄華が衆人の目を驚かす存在となっていたのが、佐々木道誉(ささきどうよ)であった。

例によっての、バサラ・スタイルで風流を極め、西山や東山で小鳥を取る鷹狩をしての帰途、妙法院(みょうほういん:京都市。東山区)の前を通過。行列の後方の部下らに命じて、そこの庭園内にある紅葉の枝を折らせた。

まさにその時、妙法院門跡(みょうほういんもんぜき:注1)は、御簾の中から暮れゆく秋の庭の風景を鑑賞しながら、「霜葉紅於二月花」などと吟詠して楽しんでいた。

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(訳者注1)亮性法親王。後伏見天皇の皇子。
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その目の前で、道誉の不心得者の部下たちが、最も鮮やかに紅葉した枝を次々と引き折っていく。

妙法院門跡 誰か! あのイタズラを止めさせなさい!

妙法院家司(けし:注2) ははっ!

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(訳者注2)原文では「坊官」。僧衣を着し、帯刀している人。
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彼は、庭に出て一喝(いっかつ)、

妙法院家司 こらぁっ! ここは御所の中やぞぉ、いったいどこのなにもんや、御所に生えたる紅葉に、そないなムチャするやつはぁ!

しかし、相手は意に介しない。

佐々木家メンバーA なにぃ、「御所」やとぉ! 「御所」がいったいどないしたぁ! なにガタガタ言うてんだよぉ、チャンチャラおかしいじゃぁ、あーりませんかぁ!

彼は嘲り笑い、さらに大きな枝を、引き折ってしまった。

その時そこには、妙法院の門徒でもある延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らが多数、宿直していた。

彼らは怒った。

延暦寺衆徒B やいやい、ここをいったいなんやと思とんねん! 門跡寺院やぞ!

延暦寺衆徒C けしからんやっちゃ!

延暦寺衆徒D その枝をこっちへ渡せ! エーイ

延暦寺衆徒E おれの鉄拳を、食らえぃ!

延暦寺衆徒Eの握りこぶし ボカッボカッ!

佐々木家メンバーA ウゥッ・・・ウゥッ・・・。

延暦寺衆徒F このドアホメが!

延暦寺衆徒Fの握りこぶし ボカーン、ボカーン!

佐々木家メンバーA ウグッ・・・ウグッ・・・。

延暦寺衆徒B そんなヤツ、はよ、門前に放り出してまえ!

延暦寺衆徒C とっとと出てけぇ!

延暦寺衆徒Cの臂 グキ!

佐々木家メンバーA ウグッ!

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この事件の報告を受けて、今度は、道誉が怒りだした。

佐々木道誉 ふざけんじゃねぇぞぉ! どこの門跡だが知らんけんど、よりにもよって、この道誉の家中のもんをなぐりつけるとは、なにごとだぁ!

道誉は、自ら300余騎を率いて妙法院へ押し寄せ、ただちに火を放った。

折りからの激しい風に、火炎は周囲に広がり、建仁寺(けんにんじ:東山区)まで延焼。回転式経典蔵、開山堂、塔中・瑞光庵(ずいこうあん)が一斉に燃え上がった。

その時、妙法院門跡は修行の最中で、持仏堂(じぶつどう)にいたのだが、すばやい判断で、後方の小門からはだしのまま、光堂(ひかりどう)の中へ逃げ込んだ。

弟子の若宮は自室にいたが、縁側の下に逃げ隠れた。それを、道誉の子息・秀綱(ひでつな)が見つけ、走りかかってさんざんになぐりつけた。

清僧(注3)、家司、稚児(ちご)、警護担当僧らは、思い思いに方々へ逃亡した。

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(訳者注3)原文では、「出世」。不妻帯で持仏堂の法事を担当する。
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ま夜中に、いきなりトキの声が京都や白河一帯に響き渡り、兵火は四方に延焼していく。京都警護番役の武士らは、「いったい何事!」とあわて騒ぎ、そちらこちらに馳せ違う。

事の次第を確かめ、帰宅した人々らはみな、

京都の人G あぁ、もう、なんちゅう事すんねん。

京都の人H よりにもよって、門跡さんがいはるお寺に、火ぃつけるやなんてなぁ・・・前代未聞の悪行やでぇ。

京都の人I そのうちきっと、延暦寺からガーンと言うて来よるぞぉ。

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案の定、延暦寺から、朝廷や幕府に対して強硬な抗議が来た。

 「古より今に至るまで、喧嘩や不慮に出できたる事は多いとはいえ、門跡のおわします寺院を焼き払い、清僧や家司を面縛(注4)するなどとは、前代未聞である。ただちに、佐々木道誉と佐々木秀綱の両名を逮捕し、死刑に処せられたし!」

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(訳者注4)顔を前に出し、両手を後ろ手に縛る。
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延暦寺からの抗議文を読んだ光厳上皇(こうごんじょうこう)は、あまりの無念さに、激しい憤りをおぼえた。

光厳上皇 (内心)妙法院の門跡は、他ならぬ私の弟や! 佐々木道誉め、いったいなんちゅう事すんねん、天皇家を侮辱しおって! よーし、すぐに刑罰を加えたる。斬罪にするか流罪にするか・・・。

光厳上皇 (内心)いやいや、そうは言うてもなぁ・・・今の世の中、朝廷の意向だけでは何一つ決めれへんがな・・・「この問題を善処するように」と、まぁ、足利幕府にこう申しわたすより他、しようがないやろなぁ。

しかし、足利尊氏(あしかがたかうじ)も直義(ただよし)も、道誉を大いに贔屓(ひいき)しているので、一向にラチがあかない。

延暦寺からの理のこもった訴状も、ただ机上に積もっていくのみ、訴える側も、ただただストレスがたまっていく。なのに、道誉は、そのような事には一向におかまいなし、いよいよ奢侈放埓(しゃしほうらつ)をほしいままにしている。

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忍耐の限界に達した延暦寺の衆徒たちは、ついに決起集会を開いた。

延暦寺衆徒J えぇい、もぉ! 一向に事が動かん!

延暦寺衆徒K 足利兄弟は、佐々木道誉の事を、見て見んフリしとるわい。

延暦寺衆徒L こないなったら、我々としては、実力行使あるのみや! 大宮社(おおみやしゃ)と八王子社(はちおうじしゃ)の神輿(しんよ)を、根本中堂(こんぽんちゅうどう)へ上げ奉った後に、それを京都御所の中まで持ち込むべし!

ついに、延暦寺は、ストライキ(strike)に突入。延暦寺内の諸寺諸堂の講義を完全ストップ、朝廷から依頼の祈願をも完全ストップ、末寺や末社の門戸を閉ざし、祭礼をも一切ストップ。まさに延暦寺の運命、天下の大事、今ここにあり。

こうなると、足利幕府としてもさすがに、延暦寺からの強訴(ごうそ)を無視できなくなってきて、光厳上皇に対して、「佐々木道誉の処分、死罪一等を減じて、遠流(おんる)の刑に処せられるべきかと存じます」と奏上した。

これを受けて、院はさっそく上皇命令書を発行し、延暦寺を宥(なだ)めにかかった。

従来であれば、延暦寺の強訴はこんな事ではとてもおさまらないのだが、

延暦寺衆徒J あんな事しよったヤツが流罪やなんて、そんなん、あかん、あかん!

延暦寺衆徒K それでは、刑罰、軽すぎぃ。

延暦寺衆徒L 死刑、断固、死刑!

延暦寺高僧M あんなぁ・・・。

延暦寺高僧N おまはんがた、まぁまぁ、そないにイキリ立たんと・・・もちっと冷静になりなさい、冷静にぃ。

延暦寺高僧O 今の世の中の情勢見てみいな、天下は足利家のもんやないかい。そないな中にやでぇ、足利幕府の方でも譲歩してくれてや、五刑(注5)のうちの一つを採用してなぁ、わが寺の面目を保ってくれたんやんかぁ。

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(訳者注5)鞭、杖、徒、流、死。
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延暦寺高僧P そうやでぇー。

延暦寺高僧Q まぁ、ここまでの結果を勝ち取れたんやから、比叡山の神々の訴えも聞き届けられたっちゅうもんやろがぁ。

というわけで、4月12日、三社の神輿を元に戻して、延暦寺は矛を収めた。

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同月25日、佐々木道誉と佐々木秀綱の流刑先が決定された。場所は、上総国山辺郡(かずさこくやまのべぐん:千葉県・山武郡)。

流刑先への道誉の出発に際しては、近江の国分寺(こくぶんじ:滋賀県・大津市)のあたりまで、若党300余騎が、「主の見送り」と称して前後に従った。見れば全員、猿皮で矢つぼを覆い、猿皮の腰当てを着け、手には鶯(うぐいす)が入った鳥籠(かご)を持っている。

道中至る所で酒宴を設け、宿場ごとに、遊女と戯れる。世の常の流人の姿とはうって変わり、なにか、非常に華やいで見える。

まさに、「朝廷や院の決定など、何ほどのものか、延暦寺の怒りなど、どこ吹く風」との思いを見せつけんがための、佐々木道誉一流のパーフォーマンスに他ならない。

世間の智慧ある人の声P ねぇねぇ、聞いたことあるでしょ、「延暦寺から訴訟を起された人間は、その後10年の中に、その身を滅ぼす事になる」って説。

世間の智慧ある人の声Q その説、たしかに当たってるよ。例えば、治承(じしょう)年間の、藤原成親(ふじわらのなりちか)、西光(さいこう)、西景(さいけい)。

世間の智慧ある人の声R 康和(こうわ)年間には、藤原師通(ふじわらのもろみち)。その他おおぜいに至っては、もうとても数えきれないくらい、そういった例があるんだよなぁ。

世間の智慧ある人の声S 佐々木一族の運命、これからいったい、どうなっていくのかなぁ。だいじょうぶなんだろうか?

はたして、文和(ぶんわ)2年(1353)の6月13日、後光厳上皇(ごこうごんじょうこう)が、山名時氏(やまなときうじ)に襲われて近江国へ避難した際に、佐々木秀綱は、堅田(かたた:滋賀県・大津市)において延暦寺衆徒に討たれてしまった。

その弟・秀宗(ひでむね)は、大和国(やまとこく:奈良県)の宇智郡(うちごおり:奈良県・五条市)で、野伏(のぶし)らに殺されてしまった。

孫の秀詮(ひであきら)とその弟・氏詮(うじあきら)は、摂津国(せっつこく)・神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)の戦の際に、吉野朝廷軍によって討たれてしまった。

弓馬の家(きゅうばのいえ:注6)に生れたのであれば、戦の場に死して本望、とはいいながらも、「これはみな、比叡山守護の医王(いおう)・山王(さんのう)の怒りに触れたからだ」と、その後の展開を見聞きした人々は、舌を震わせながら、神仏を畏れつつしむ思いをさらに深くした。

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(訳者注6)武家。
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