太平記 現代語訳 1-2 後醍醐天皇が即位された当時の時代背景

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、虚(フィクション)実(史実)混ざっています。太平記に書かれていることを、検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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さて・・・

我が国初代帝王・神武天皇(じんむてんのう)より数えること95代目、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)陛下のご治世の時代、武家方(ぶけがた)の家臣に、北条高時(ほうじょうたかとき)という人がいた。

まさにこの時代、一方は[君主]の徳から外れ、他方は[臣下]の礼を失し、と言う他はない。

この時以来、日本国中大いに乱れ、一日として平穏の時を過ごす事もできなくなってしまったのである。

狼煙(ろうえん:注1)天を覆い隠し、鯨波(げいは:注2)地を揺るがすこと、今に至るまで40余年、天寿(てんじゅ)を全うできる者は、地上に一人として存在せず、万民、手足をゆったりと伸ばす所もなし、シビアなることこの上なし、の状態が続いたのである。

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(訳者注1)異変を首都にある政府に告げるための、のろしの煙。

(訳者注2)戦いの際、最初に全員一斉に上げるトキの声。
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その争乱の発端をよくよく考察(こうさつ)してみるに、一朝一夕(いっちょういっせき)にしてこのような事になったわけでは、決してない。

元暦(げんりゃく)年間、鎌倉(かまくら:神奈川県鎌倉市)の右大将・源頼朝(みなもとのよりとも)卿は、平氏(へいし)一門を追討(ついとう)。

後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は、その功績を高く評価され、頼朝卿に、日本全国六十六か国の総追補使(そうついぶし)(注3)の職を与えられた。

その時始めて、頼朝率いる鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、諸国に守護(しゅご)を設定、さらに、各荘園(しょうえん)に地頭(ぢとう)を置いた。

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(訳者注3)江戸時代以前の[国]とは、日本全体を一つの国家とみなした[国]ではない。当時の日本の国土と考えるエリアを66個に細分して設定された行政区分が、[国]である。この[国]の名前は、現在も、地名や駅名等に残っている。例えば、[大和郡山市(やまとこおりやま)]、[武蔵小金井駅(むさしこがねい:中央線)]。
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頼朝の後、その長男・源頼家(みなもとのよりいえ)、次男・源実朝(みなもとのさねとも)と、あいついで征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任、これを、[三代将軍]と言う。

しかしながら、頼家は実朝に討たれ、実朝は頼家の子・公暁(くぎょう)に討たれ(注4)、父子三代わずか42年にして、その家系は断絶してしまった。

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(訳者注4)鎌倉市の鶴岡八幡宮の石段の脇に「公暁の隠れイチョウ」という木があった。(2010年に倒壊してしまったようだ。)「公暁はこのイチョウの木の陰に隠れて、石段を下りてくる実朝を待ちかまえておりました」という事のようである。
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その後、頼朝の舅(しゅうと)・北条時政(ほうじょうときまさ)の息子の北条義時(ほうじょうよしとき)が(注5)、時流に乗って超越的(ちょうえつてき)な権力を握るに至り、その勢威は次第に、日本全国に波及(はきゅう)していった。

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(訳者注5)北条政子が頼朝の妻、時政は政子の父、義時は政子の弟である。
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当時の朝廷側の最高権力者は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)であった。

鎌倉幕府の権威に日本中が圧倒され、朝廷の威信が日に日に崩壊していく事を上皇は悲嘆、ついに、「打倒・北条義時!」を思い立たれた。

かくして、[承久の乱(じょうきゅうのらん)]が勃発(ぼっぱつ)、天下は寸時も静まることなく、軍旗の数おびたたしく太陽をも覆わんばかり、ついに、朝廷側と幕府側は、宇治・瀬田(せた:滋賀県大津市)にて、相い見(まみ)える事となった。

しかしながら、たった一日で戦いの決着がついてしまい、朝廷側はあえなく敗北。

戦後処理の結果、後鳥羽上皇は、隠岐島(おきとう:島根県)に島流しとなり、北条義時の権力はますます増大、天下八方をわが掌(たなごころ)に握り、という状態となった。

それより後、泰時(やすとき)、時氏(ときうじ)、経時(つねとき)、時頼(ときより)、時宗(ときむね)、貞時(さだとき)と相次いで北条家7代に渡り、わが国の政権を武家が握り続けるところとなった。

彼らの良き治世(ちせい)の徳により、人民は困窮(こんきゅう)を免れることができた。

また、その権力は万人の上に及ぶとはいいながらも、自らの官位を四位より上に超えせしめることもなく、彼らは謙虚なスタンスの中に、民に仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を厳しく見省りつつ、礼儀を正しくしていった。

まさに、「高しといえども危うからず、満てりといえども溢(あふ)れず」とも言うべき、実に立派な治世の連続であった。

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承久以降、鎌倉幕府は、天皇家あるいは藤原氏の五摂家(ごせっけ)(注6)の中から、政治のリーダーの任に足るべき器(うつわ)を持つ人物を選出して征夷大将軍に就任させ、それを鎌倉へ迎え、臣下の礼をとることとした。

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(訳者注6)摂政・関白を出すことができる血筋、すなわち、近衛、九条、一条、二条、鷹司の五家。
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承久3年に始めて、北条氏から選出の担当2人を京都に派遣、「両六波羅(りょうろくはら)」と称して(注7)、首都圏と中国地方の行政、および、京都の治安維持を行わせた。

また、永仁(えいにん)元年からは、九州地方に一人の行政長官を派遣して、その地方の政務全般と対外防衛を担当させるようにした。(注8)

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(訳者注7)[南]と[北]をあわせて「両六波羅」と称していた。以降の翻訳においてはこれを、「六波羅庁長官」と表現している。

(訳者注8)以降の翻訳においてはこれを、「九州庁長官」と表現している。
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このような諸々の政策の結果、日本全国ことごとく幕府の命に従い、その権威は、海外の人々までをも感服せしめるに至ったのである。

 「朝日輝けば、残星、光を奪わるる習い」

幕府側としてもあえて、朝廷をないがしろにしようという意図は無かったのだが・・・結果としては、局地的観点から言えば、「荘園においては、地頭強・荘園領主弱状態」、地方行政レベルの観点から見れば、「国においては、守護重・国司(こくし)軽」の状態となってしまった・・・まさに、朝廷は年々に衰え、幕府は日々に盛ん、という世の流れ。(注9)

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(訳者注9)守護と地頭は鎌倉幕府が任命する。一方、国司は朝廷が任命するし、荘園領主は一般には公家や社寺である。このように局地的に見ても地方レベルでみても、一つの地域の中に権力が2個存在するという状態なのだから、両者の利害対立は必至であろう。
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このような情勢であったがゆえに、歴代の英明なる天皇陛下は、

天皇A (内心)過去に思い馳せれば・・・

天皇B (内心)あの、承久の乱の後の、帝王方の、おん(御)恨みを・・・

天皇C (内心)なんとかして、晴らしてさしあげたいもんやなぁ・・・

天皇D (内心)現在の世の姿を見るにつけても・・・

天皇E (内心)朝廷の権威は、崩壊の一途をたどってるやないか

天皇F (内心)あぁ、なんとかせんと、いかん、なんとかせんと・・・

天皇G (内心)なんとかして、あの東方の蛮族どもめ(注10)を、やっつけてしまいたいもんやなぁ!

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(訳者注10)原文では、「東夷」。幕府の事をこのように表現しているのである。鎌倉は京都の東にあるので。
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この思い、歴代の天皇の心中に常にわだかまっていたのである。しかしながら、朝廷側は微力ゆえそれもかなわず、あるいは時節いまだ到来せずして、ただただ沈黙を守る他はなかった。

ところが・・・

北条時政から数えて9代目、北条高時(ほうじょうたかとき)入道の代に至って、「天地の命(めい)を革(あらた)むべき(=革命)」危ういきざしが顕れている。

過去の歴史上の人物のふるまいと、現在の北条高時の姿とを、じっくりと対照比較してみるに、その行状、はなはだ軽はずみな所あり。

人の嘲りをも顧みず、その政道は不正にして、人民の疲弊(ひへい)を思いやることもなし、日夜、放埓(ほうらつ)な遊興にただふけるのみ。このような事では、北条家の祖先たちの偉光(いこう)も、はなはだしく傷ついてしまうではないか。

朝な夕な、珍奇(ちんき)な物を弄(もてあそ)び、今にも国を傾け、世を廃(すた)れさせてしまわんばかりの状態・・・衛(えい)の懿公(いこう)、鶴を載せし楽しみもはや尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽きし恨み、今や来たりなんとす・・・彼の行状を見る人は、眉をひそめて批判し、彼の言動を聴く人は、唇をひるがえしてそれを誹(そし)る。

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時の帝・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)陛下は、後宇多上皇(ごうだじょうこう)陛下の第2皇子、その御母堂(ごぼどう)は、談天門院(だんてんもんいん)・藤原忠子殿。

北条高時の根回しにより、おん年31歳の時に、天皇に即位された。

天皇は、私生活においては、君臣・父子・夫婦の三道と、仁義礼智信(じんぎれいちしん)の五徳を正し、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)の教えのままに生きられた。

公(おおやけ)においては、政務全般怠りなく務められた。延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)年間の醍醐(だいご)・村上(むらかみ)両帝の政治を理想に掲げ、その再現を自らの目標とされた。

日本国中がその政治姿勢を仰ぎ見て悦びをおぼえ、万民が陛下の徳の翼の下に楽を得た。廃れてしまった諸事を再興し、一つの善行に対しても、これを賞せられた。

かくして、伝統的な寺社、禅宗、律宗、大いに繁栄、顕密(けんみつ)・儒教(じゅきょう)の大学者たちもみな、望みを達成した。

世間の声L ほんまに、今の天皇陛下、立派な方どすわなぁ。

世間の声M 言えてるぅ・・・まさに、「天から徳を授けられた、聖なる王者」とでも言うべき、お方じゃぁん?

世間の声N まっこと、「地上の全てからあがめ奉られる名君」と言うても、よかとよねぇ。

世間の声O げに(実に)、高ぁい仁徳を持たれたお方じゃけぇのぉ。

世間の声N こないにすばらしい天皇陛下を、お上(かみ)にいただいてるやなんて・・・わしは日本人に生まれてきて、ほんまよかったと思ぉとりますぅ・・・ハイィー。

世間の声P 日本の誇りだわねぇー。

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(訳者注)

御醍醐帝は、1288年に誕生し、1318年に、天皇に即位した。

1318年の世界の情勢を概観すると、以下のようになる。

朝鮮半島:高麗王朝の宣宗の統治下にある。イ・ソンゲ(李成桂:後に李氏朝鮮を興す)は、まだこの世に生を受けていない。

中国:元王朝の大ハーン・アユルバルワダの統治下にある。

中央アジアには、チャガタイ・ハン国、西アジアには、イル・ハン国。

ヨ-ロッパには、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国あり。フランスには、カペー朝の国王あり。

イタリアには、ダンテ・アリギエーリ、フランチェスコ・ペトラルカあり。

ローマには、ローマ教皇がいない。教皇ヨハネス22世は、アヴイニョン(フランス)にあり。いわゆる「アヴイニョン捕囚」の期間中。

 アヴイニョンの橋の上で 踊るよ、踊るよ

の歌にある、あの「アヴイニョン」である。
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