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みんなちがってみんないい

車椅子に乗ったり押したりしてみてはじめて、世の中の機能が「健常者による健常者のための仕組み」になってることに気付かされる。

学校教育のシステムも、「学校教育に適応して、勉強も出来て、集団に馴染めた人」によって作られている。

だから、「学校に行けない」「集団に馴染めない」「お勉強についていけない」「授業がわからない」そんな子供たちが理解出来ないのかもしれない。

当事者にしか分からないこと。
当事者になって、はじめてわかること。

長男は幼い時から、あらゆることが「普通」では無かった。
例えば、激し過ぎる夜泣き、食に全く興味が無い、あらゆることに過敏、すぐに癇癪を起こしてお友達を叩いてしまう、集団行動ができないetc
インターネットもスマホもない時代、頼れるのは育児書のみ。
必死で読めば読むほど、普通からますますかけ離れていった。
「なんで?どうして?」もう、子育てに苦悩とストレスまみれの日々だった。
後に、ASDに限りなく近い、と知った時、「だからかぁ…」と目からウロコが大量に落ちた。
ひたすら長男に「普通」を求めていた。
ただ、それが彼(長男)の個性だったんだ。
「普通」の枠に入れようとするから辛くて苦しかったんだ。  
気づけたことで少しだけ気持ちが楽になった。
私と同様に子育てに苦悩している親の気持ちも分かるようになった。当事者になったおかげで。

発達障害も、軽度の知的障害も、見た目は全く変わらない。
でも、もしかしたら、こちらの言っていること、書かれてあることが理解出来ないのかもしれない。
「考えること」「予測すること」が苦手なのかもしれない。
問題行動の原因はそこにあるのかもしれない。
サポートが必要なのに「普通」の枠に入れられて、見過ごされている人たちが一定数いるという。

私の「普通」は、目の前の人の「普通」ではないのかもしれない。

「みんなちがってみんないい」

これに気づくだけで、誰もが生きやすい本当に優しい世の中への第一歩になるかもね。

終わり

✳︎「ふみサロ」提出エッセイ
今月のお題は
「ケーキの切れない非行少年たち」
でした。

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