古典100選(55)梅松論

前回の記事で『増鏡』を紹介したとき、後深草天皇と亀山天皇の二人(=兄弟)の話をしたが、南北朝対立に絡むものは他の作品にもあるので、この話は覚えておくと良いだろう。

今日は、室町時代の1360年頃の成立で、作者は不明だが、『梅松論』(ばいしょうろん)という軍記物語である。

後嵯峨院、後深草院、亀山院のほか、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の名も出てくる。

では、原文を読んでみよう。

①ここに後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻み、遺勅にのたまはく、「一の御子後深草院御即位あるべし。降り位(い)の後は長講堂領百八十ヶ所を御領として、御子孫永く在位の望みを止めらるべし。次は二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代敢へて断絶あるべからず。子細あるに依りてなり」と、御遺命あり。
②これに依りて、後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至るまでなり。
③次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年より弘安十年に至る迄なり。 
④後嵯峨院崩御以後、三代は御譲りに任せて御治世相違なき所に、後深草の院の御子伏見の院は一の御子の御子孫なるに、御即位ありて正応元年より永仁六年に至る。
⑤次に伏見院の御子持明院、正安元年より同じき三年に至る。
⑥この二代は関東の計らひ邪(よこしま)なる沙汰なり。
⑦しかる間、二の御子亀山院の御子孫御鬱憤あるに依りて、またその理(ことわり)に任せて後宇多院の御子後二条院御在位あり。
⑧乾元元年より徳治二年に至る。
⑨またこの君非義あるに依りて、立ち返り後伏見院の御弟萩原新院御在位あり、延慶元年より文保二年に至る。
⑩また御理、運に帰す。
⑪後宇多院の二の御子後醍醐御在位あり、元応元年より元弘元年に到る。
⑫この如く、後嵯峨院の御遺勅相違して、御即位転変せし事、併せて関東の無道なる沙汰に及びしより、「いかでか天命に背かざるべき」と、遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり。

以上である。

まず、元号がいくつか出てくるので、ここを整理しておこう。丸数字は、原文の丸数字に対応している。【  】内の数字は、歴代天皇の代を示す。

①寛元(かんげん)1243~1247年【88後嵯峨】
②宝治(ほうじ)1247~1249年【89後深草】
②建長(けんちょう)1249~1256年
②康元(こうげん)1256~1257年
②正嘉(しょうか)1257~1259年
②正元(しょうげん)1259~1260年
文応(ぶんおう)1260~1261年【90亀山】
弘長(こうちょう)1261~1264年
文永(ぶんえい)1264~1275年
③建治(けんじ)1275~1278年【91後宇多】
③弘安(こうあん)1278~1288年
④正応(しょうおう)1288~1293年【92伏見】
④永仁(えいにん)1293~1299年
⑤正安(しょうあん)1299~1302年【93後伏見】
⑧乾元(けんげん)1302~1303年【94後二条】
⑧嘉元(かげん)1303~1306年
⑧徳治(とくじ)1306~1308年
⑨延慶(えんきょう)1308~1311年【95花園】
⑨応長(おうちょう)1311~1312年
⑨正和(しょうわ)1312~1317年
⑨文保(ぶんぽう)1317~1319年
⑪元応(げんおう)1319~1321年【96後醍醐】
⑪元亨(げんこう)1321~1324年
⑪正中(しょうちゅう)1324~1326年
⑪嘉暦(かりゃく)1326~1329年
⑪元徳(げんとく)1329~1331年
⑪元弘(げんこう)1331~1334年

上記の文章は、何が言いたいのかというと、後嵯峨院(=後深草天皇と亀山天皇の父親)の勅命に反して、後深草系(=持明院統)の天皇の在位を2代(伏見→後伏見)続けて認めた幕府(=関東)を批判しているのである。

最後の「人々の耳目を驚かさぬはなかりけり」というのは、肯定を強調する二重否定の言い方になっており、「世間をあっと驚かせた」という意味になっている。

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