古典100選(61)古本説話集

今日は、久しぶりに平安時代末期の作品に戻ろう。

仏教説話がまとめられた『古本説話集』(こほんせつわしゅう)である。

古典が苦手な人も読みやすいし、訳しやすいと思う。

では、原文を読んでみよう。

①今は昔、丹後の国は北国にて、雪深く、風険しく侍る山寺に、観音験(げん)じ給ふ。
②そこに貧しき修行者籠もりにけり。
③冬のことにて、高き山なれば、雪いと深し。
④これにより、おぼろけならずは人通ふべからず。
⑤この法師、糧(かて)絶へて日ごろ経るままに、食ふべき物なし。
⑥雪消えたらばこそ出でて乞食(こつじき)をもせめ、人を知りたらばこそ「訪(とぶら)へ」とも言はめ、雪の中なれば、木草の葉だに食ふべき物もなし。
⑦五六日請ひ念ずれば、十日ばかりになりにければ、力もなく、起き上がるべき心地もせず。
⑧寺の辰巳(たつみ)の隅に破れたる蓑(みの)うち敷きて、木もえ拾はねば、火もえ焚かず、寺は荒れたれば、風もたまらず、雪も障(さわ)らず、いとわりなきに、つくづくと臥せり。
⑨物のみ欲しくて、経も読まれず、念仏だにせられず。
⑩ただ今を念じて、「今しばしありて、物は出で来なん。人は訪ひてん」と思はばこそあらめ、心細きこと限りなし。
⑪今は死ぬるを限りにて、心細きままに、「この寺の観音、頼みてこそは、かかる雪の下、山の中にも臥せれ、ただひと度(たび)声を高くして、『南無菩薩』と申すに、もろもろの願ひみな満ちぬることなり。年ごろ仏を頼み奉りて、この身いと悲し。日ごろ観音に心ざしを一つにして頼み奉るしるしに、今は死に侍りなんず。同じき死にを、仏を頼み奉りたらむばかりには、終はりをも確かに乱れず取りもやするとて、この世には今さらにはかばかしきことあらじと思ひながら、かくしありき侍り。などか助け給はざらん。高き位を求め、重き宝を求めばこそあらめ、ただ今日食べて、命生(い)くばかりの物を求めて賜(た)べ」と申すほどに、戌亥(いぬい)の隅の荒れたるに、狼に追はれたる鹿入り来て、倒れて死ぬ。
⑫ここにこの法師、「観音の賜びたるなんめり」と、「食ひやせまし」と思へども、「年ごろ仏を頼みて行ふこと、やうやう年積りにたり。いかでかこれをにはかに食はん。聞けば、生き物みな前の世の父母なり。我、物欲しといひながら、親の肉を屠り食はん。物の肉食ふ人は、仏の種を絶ちて地獄に入る道なり。よろづの鳥獣も、見ては逃げ走り、怖ぢ騒ぐ。菩薩も遠ざかり給ふべし」と思へども、この世の人の悲しきことは、後の罪もおぼえず、ただ今生きたるほどの堪へがたさに堪へかねて、刀を抜きて、左右の股の肉を切り取りて、鍋に入れて煮食ひつ。
⑬その味はひの甘きこと限りなし。
⑭さて、物の欲しさも失せぬ。
⑮力も付きて人心地おぼゆ。
⑯「あさましきわざをもしつるかな」と思ひて、泣く泣くゐたるほどに、人々あまた来る音す。
⑰聞けば、「この寺に籠もりたりし聖はいかになり給ひにけん。人通ひたる跡もなし。参り物もあらじ。人気(ひとけ)なきは、もし死に給ひにけるか」と、口々に言ふ音す。
⑱「この肉を食ひたる跡をいかでひき隠さん」など思へど、すべき方なし。
⑲「まだ食ひ残して鍋にあるも見苦し」など思ふほどに、人々入り来ぬ。
⑳「いかにしてか日ごろおはしつる」など、廻りを見れば、鍋に檜(ひのき)の切れを入れて煮食ひたり。
㉑「これは、食ひ物なしといひながら、木をいかなる人か食ふ」と言ひて、いみじくあはれがるに、人々仏を見奉れば、左右の股(もも)を新しく彫り取りたり。
㉒「これは、この聖の食ひたるなり」とて、「いとあさましきわざし給へる聖かな。同じ木を切り食ふものならば、柱をも割り食ひてんものを。など仏を損ひ給ひけん」と言ふ。
㉓驚きて、この聖見奉れば、人々言ふがごとし。
㉔「さは、ありつる鹿は仏の験じ給へるにこそありけれ」と思ひて、ありつるやうを人々に語れば、あはれがり悲しみあひたりけるほどに、法師、泣く泣く仏の御前に参りて申す。
㉕「もし仏のし給へることならば、もとのさまにならせ給ひね」と返す返す申しければ、人々見る前に、もとのさまに成り満ちにけり。
㉖されば、この寺をば成合(なりあい)と申し侍るなり。
㉗観音の御験(しるし)、これのみにおはしまさず。

以上である。

㉖の文で分かるように、このお話の舞台は、実在する成相寺(なりあいじ)である。

冒頭に「丹後の国」とあるように、京都府宮津市にあるのだが、ピンとこない人は、天の橋立がある場所の近くと言えば分かるだろうか。

鹿の股肉(ももにく)を食べたつもりが、木造の観音様の股肉がえぐられていたと書かれているように、身代わり観音で有名である。

秋になったら、ぜひ紅葉を見るついでに訪れてみると良いだろう。(紅葉シーズンまで待てなければ、9月に2回ある3連休のときでも良い)


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