歴史をたどるー小国の宿命(74)

1232年、歴史上初めて、日本らしい法律が北条泰時によって制定された。それが、「御成敗式目」である。

第42代の文武天皇の時代、701年に完成した大宝律令は、中国の唐の律令制度を参考にしたものであった。

だが、このシリーズでも触れてきたように、律令制度は長くは続かなかった。

中国から伝わった漢字がもとになって、日本独自の仮名が生まれ、今の日本語の土台が築かれたように、律令制度の破綻も、日本国内の実情にはそぐわなかったからだといえるだろう。

それでも、朝廷の貴族たちは、中国の漢詩や文化に親しみ、公家の生活の中に取り込んでいった。

だが、武家側の人間からすれば、公家の慣習とは相容れないものがあり、初代の征夷大将軍だった頼朝の時代以来、積み上げてきた先例をもとに、何らかの基準が必要とされた。

北条泰時は、朝廷の反発にも配慮しながら、武家社会に必要な決まりを、全51ヶ条の条文にまとめたのである。

そのうち、9条から17条までは刑法、18条から27条は家族法に関係する条文であり、今の時代の刑法や民法につながる部分も見受けられる。

文書を偽造したら罪に問われることや相続の問題など、800年前の考え方に共感できるところもある。

北条泰時は、父親の義時同様に、死ぬまで執権を務めた。「御成敗式目」を制定したときは50才であったが、さらに10年長生きして、1242年に60年の生涯を閉じた。

鎌倉幕府は、泰時が亡くなってから30年後、大きな事件を迎える。

長らくご無沙汰だった中国大陸からの侵略が、このとき始まろうとしていたのである。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?