現代版・徒然草【61】(第166段・何のために)

先週の土日に続き、今日も「人生」をテーマにして、ピックアップしてみた。

生きていると、何のために勉強するのかとか、何のために働くのかとか、リタイア後は何のために余生を生きるのかとか、さまざまな葛藤を経験する。

そのほとんどは、よく考えてみると、世間一般の生き方に縛られていることに気づく。

では、原文を読んでみよう。

①人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏(ゆきほとけ)を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。
②その構(かま)へを待ちて、よく安置してんや。
③人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

以上である。

①の文では、人間の営み(=毎日あくせく働いていること)を見ていると、春の日に雪で仏を造って、その仏を安置するために、金銀などの飾りをつけたお堂を建てているようなものだと言っている。

②の文では、そのお堂が完成するのを待っていても、雪で造った仏像がそれまで安置できる(=夏の暑さでも溶けずに現状維持できる)だろうか、と投げかけている。

お堂を先に建てればよいではないかとツッコミたくなるが、それはさておき、最後の③の文が重要である。

③では、人の命がいくらあっても、雪仏の雪が下から溶けていくのと同様に、私たちは(自分の身を削りながら)日々あくせく働いて、(その先にあるものを)期待していることが、本当に多いと言っている。

現代においても、働きざかりのサラリーマンの中には、たまには休めよと言いたくなるほど無理して働いている人がいる。

そういう人の中には、今一生懸命働けば、その先に明るい未来が待っている(=お金が貯まってやりたいことができるなど)とかいうようなことを言っているが、まさしく兼好法師が指摘しているのはそれである。

つまり、完成した雪仏は、働きざかりのその人自身を象徴している。

今は自覚症状がないくらい元気であっても、身体のどこかは、働き詰めによって悲鳴を上げているかもしれない。

せっかくあと一歩で夢が実現できそうだというところで、ガンに冒され、出歩くこともままならなくなり、貯めたお金は入院費や治療費に消えていく。

そんな自身の末路を考えたら、今この時を、明日は(思いもしない事故に巻き込まれて)ない命と思って、自分のために少しは楽しむことも大切だといえる。


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