歴史をたどるー小国の宿命(59)

平家物語では、『木曽の最期』というタイトルで、義仲の最期の場面が語られている。

今日は義仲の最期、明日は壇ノ浦の戦いを紹介し、平家物語の一文を引用しながら、平安時代を締めくくろう。

そして、このシリーズは、明日の第60回でいったん中断し、再開時は鎌倉時代の幕開けになる。

「さてこそ粟津のいくさはなかりけれ」という有名な一文で終わる『木曽の最期』の場面は、中学時代に古文で学んだが、その記憶が今でもずっと残っている。

最後の一文が示すように、粟津が義仲の最期の地で、事実上、戦闘と呼べる状態ではなかったことから、戦わずして終わった。

粟津は、今の滋賀県の大津市にあたる。石川県の粟津温泉とは違う場所である。

1184年、頼朝が後白河法皇に命じられて、義仲追討の軍を北陸地方に展開したわけだが、その数は3万騎であった。

対する義仲の軍は、直前に京都の宇治川の戦いで敗れた影響もあり、50騎ほどだった。さらに、敵に追討されて、義仲の味方は4人だけになったのである。

もはやこれまでと、義仲は幼なじみの今井兼平に自害を勧められ、近くの松林に逃げるように言われるが、そこに行くときに薄氷の張った深い田んぼに馬ごとハマってしまった。

当然、身動きできない状態となり、そこを敵軍から弓矢で顔面を打たれた。そして、駆けつけた郎党に首を討ち取られる。

幼なじみの今井兼平は、これを見て、太刀の先を口にくわえ、馬から真っ逆さまに落ちて自害した。

すべては、後白河法皇の不満を買ったのが始まりだったのだろうか。

同じ源氏同士なのに、何とも気の毒な最期である。

最後に残った4人の中には、巴御前(ともえごぜん)という勇敢な女武者もいた。彼女は、その後、生き延びて尼になったとも伝えられているが、はっきりした消息は不明である。

明日は、1185年の壇ノ浦の戦いである。






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