仏様をあらわす。

2024年9月10日、友人の縁で
仏像彫刻ワークショップに参加しました。

彫り進めることを促してくださった先生は、
仏師であり、禅僧でもある
長谷川琢士さんという方です。


木芯を込めた一木造りにより彫り出されたカミ・ホトケ。
木は単なる人間が使う材料ではなく、生命そのものであり、
木々一本一本が持つ色や形、クセやねじれ、傷やヒビは
個性であり美しさである。
現代に生きる人間一人一人それぞれの姿や形、心のねじれや傷までもが
そのままで美しく成仏する。
いつの世もそうであったように、
今ここで生きる人々と共に在るホトケの姿であることを願い制作を続ける。


『ホトケ』 と 『ブッダ』 
「ホト」 ー日本の古語。古事記や日本書紀にて、神々が産まれ出た所。
「ケ」 ー日本民俗文化の主要素「ハレ・ケ・ケガレ」の一。
毛・気・褻と表記され、
髪の毛、まつ毛、など「ケ」は自分の意思でなく自然と育成するもの、
生命力の現れとしてみられてきた。
—— 総じて、『ホトケ』とは、生命が産まれ出る根源を指す。

6世紀、日本へ伝わった大乗仏教では、
『ブッダ Buddha (サンスクリット語で「目覚めた人」の意)』は
歴史上に現れたゴータマ・ブッダだけに限らず、
無数の菩薩・如来たちが存在する。
自分の救いだけではなく、誰もが救われる道を説く
"一切衆生悉有仏性"の思想を受け、
日本の風土と結びつき全ての生きとし生けるものが
『ホトケ』と呼ばれる様になった。

「ケ」を「ロボットの時間」
と呼んだのはどなただったか、
私は十年ほど前に、この言葉を知りました。

当時の私は、
「自分の意識のとおりに行動できない時間」
だと決めてかかって、この「ケ」を疎んじました。

身体に従うと決めてからも、
染み付いた「自分をコントロールしたい」思考は
ふとしたときに現れてきて、
私を監視・批判することがあるんですが、

長谷川さん(以後先生と呼びます)の
この言葉に触れたとき、

自分の意思にそぐわない行動をとるってことは
身体生命は自らのために、
「自分の意思」に反してでも
私の意識の与り知らぬ領域で
ずっと働いている
ということなんだよな、

と、自身の前後を忘れて
ただ気づく瞬間が起こりました。

ワークショップでのようす

朝の9時半からはじまり、夕方の5時半まで
合間に坐禅で身体を整えつつ、
昼食をいただく時間を挟みつつ行われた
ワークショップでは、

先生の進行と
「観音菩薩合掌立像」の図面をもとに、
めいめいに彫り進め、
それぞれがまったく異なるかたちの
仏さまを彫り出していました。

昼食前には、
「土地のものを身体に取り込む橋渡しになる」ということで
仏様を彫ったものと同じ木材で
食事をいただくためのお箸もつくり、

それを用いていただいたことで
「食事は神聖なもの」ということが
認識に上に現れてきたと感じています。

彫る

切り出された木材から
仏様を彫出すという、
滅多にない機会ですから、

これからあらわれる仏様のことは
どうあっても「自分の」と思いたい…

そういう、
行き過ぎた気負いが生じていたかも知れません。

進行に従っておおまかな形を彫り出したあと、
流れで先生にお顔を彫っていただいたのですが、

ただ「自分の手を加えたい」というだけで
先生の後を追う形で太刀を入れてしまったのが、
今回発露した自分の未熟さだな、と
自分のいまを省みるきっかけになりました。

彫刻は、
すでにあるものを削ぎ落とすことで
形を成していくわけで、
すでに完成しているものに手を加えるということは、
損なうことと同義なんですよね。

…人間もそうかも知れない。

私が手を加える都度、仏様の
頬はこけ、どこかおやつれになっていきました。

どうにか元の、
品のあるお顔に戻せないものかと
試行錯誤した結果、
全体的にお顔の印象が薄くなりました。

仏を彫って木材をつくる、というのは
こういうことを言うんだろうな
と、自分のした行いに若干の罪の意識を感じながらも、

それでも、
自分で彫ったとなると
やはり愛着が湧いてきます。


ちなみに私のお箸の出来はというと、
仏様で起こったこととは対照的に
かんながけの甘さから、
手に余るサイズの「ばち」のような巨大な箸ができました。
………………

おわかりいただけただろうか。

…一応、自分の口へ運ぶ橋渡しはできました。


坐る

彫刻の合間には、
何度か坐禅をする時間が設けられ、
自身の身体を感じる機会になっていました。

仏像の姿勢を身体で模索する時間…と認識しています。

実際には、参加された方たちと並んで坐ったのですが
壁に向かって一人になる感覚がありました。

これはただ私が感じた私のことなんですが、
坐っている間、
私の身体には後ろに倒れていこうとする動きがありました。

その動きと、姿勢を正そうとする意識との
押し合いへし合いをしているうちに
時間は過ぎていきました。

これはもしや
「自分の身体のうちから起こる勢い」というものの存在に
気づけた瞬間なのではないか、と
感覚を面白く感じていました。

食べる

昼食に提供していただいたのは、
どれもその土地で採れたものでした。
ひとつひとつの「来処」を教えていただけたので、
より如実に、思いを馳せることができたと思います。

目前にあるのは
生命がその命を生きるために成したものであり、

他者が、その方の人生を生きる中で
築いてきた信頼関係と、
培ってきた感性と
つながりと
の上に成り立っているものである。

その枠組みの外にいる私は、
ただご縁と機会によって、
その成果物を供されている。

これらのすべてに見合う行いを、
私はできているか
を省みると、忸怩たる思いが湧くが、

ただ感謝して、
この与えられたものをいただく

ということを体感することができました。

ひとつには功の多少をはかり彼の来処らいしょはか

ふたつにはおのれ徳行とくぎょう全欠をぜんけっとはかっておう

みつにはしんを防ぎとがはなるることは貪等とんとうしゅうとす

よつには正に良薬を事とするは 形枯ぎょうこりょうぜんが為なり

いつつには成道じょうどうの為の故に 今此いまこのじきを受く

五観の偈

食事の前、五観の偈が唱えられました。

このとき、私は誦じられず、
ただ拝むだけで居ました。

このとき感じたのは、
自身の積み重ねのうちに取り落としていたもの
の存在です。

20代の頃、禅僧に憧れて何度か参禅を試み
私の道場は娑婆だと息巻いて
在家の生活を選んだものの、
食前に偈を唱える習慣を持てないまま
気づけば十年が経っていました。

この間に経験した怒りのうち、
「恩に着せられてなるものか」
という感情があったことを思い出して、
(現在と地続きでいる)当時の私が
枝葉末節の先に入り込んで
屈折していたことに気づきました。

「生きる」が集約されたような1日を過ごして

私にとって、この日は

正直でいることを自分に課している気でいて、
私は私の臆病さや横着から、
その場しのぎをすることが
たくさんあったんだ

と気づいた1日でした。

人の目を気にして、
自分が大切にしたいものを頭の中に保管するだけで
自分の人生に表現しようとしてこなかった面の
半生を見たと感じています。

ふと思い出したのが、
「自分の感受性くらい自分で守れ」という言葉。

自分の感受性くらい



ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて



気難かしくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか



苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし



初心消えかかるのを

暮しのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった



駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄



自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

茨木のり子 「自分の感受性くらい」


今回彫り出した仏様の形は、
「白衣観音」様をあらわしているとのこと。
観音菩薩さまのお母さまだそうです。

ご利益はいろいろ書かれていましたが、

自分が必要に際して、
物怖じしてでも、生命の声に従えるように
迷ってでも、進もうと決めたほうに驀地に進めるように、

私の干支の守本尊大日如来さまのご真言を
(こっそり)念じながら彫ったので、
ただそのために拝みます。

2024年9月11日 拝






知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。