田中功起 「可傷的な歴史(ロードムービー)」@ 東京ドイツ文化センター

今日は、これを鑑賞しに赤坂に出向いた。
終わってみると、参加したに近く、もしくは体験・経験した、みたいな結果。
https://theatercommons.tokyo/program/koki_tanaka/

それに大きく作用したのは、映像の鑑賞後、モデレーターを中心に、映像をみた後の感想や考察を対話形式で議論するアッセンブリーと呼ばれた時間が設定されていたことだった。
シアターコモンズの冊子では、「集団での鑑賞経験の共有」と書かれている。

私は、福尾匠さんのテーブルを選んだ。

福尾さんは、芸大でのイベントに登壇しているのを聞いたり、著書「眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」を読んでいる途中であったりして、気になる存在だった。
福尾さんは、「カメラとともにあることで語れること2」をテーブルのテーマにしていた。

対話のスタートは、作品中でエモーショナルがピークとなる、ウヒさん(在日コリアン3世として作品に関わっている)とクリスチャンさん(在日アメリカ1世を祖父母にもつスイス人)が車の中で二人きりになるシーンの一部を再鑑賞から始まった。

そこから「ドキュメンタリー/映画」的カメラワークの使い分けに対する、田中さんの意図、それが鑑賞に及ぼす影響について対話が進んだ。

webの告知用画像に用いられている写真が、「二人の対話(作品内)のカット=カメラの内・前」と「撮影スタジオの風景写真=カメラの外・後」の二枚である、という福尾さんの指摘がとても面白く、

その後続く、
「演者のふるまいの対する説得力」を増幅させている
「作品内の授業や紙芝居・朗読」と「二人のやりとり」の並列
「責任」の分散と作家性について
不意に現れるスタッフの存在(「功起が、、」というセリフなど)によって、純粋な感情移入が避けられる
二人の共通点である「アメリカ」について、作品内に具体的に現れないこと
キャストとスタッフの区別の有無
など、きになる話題が続いた。

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この対話中、ずっと頭の中を巡っていたのが、やはり「ハッピーアワー」濱口竜介さんのことだった。

「映画」と「映像作品」と呼ばれ方は違えど、
・「ワークショップ的」であること
・ドキュメンタリー「リアル」と映画「フィクション」のどっちでもない(どっちでもある)
という点でとても近い印象を受けた。

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田中さんの作品(オンタイムで鑑賞したことがほぼないので、申し訳ないですが)では、参加者に「指示」をして、主に共同作業など何かを「やってみる」ものが多く、他社たちの関わりの中で何かが形成されていく(もしくは壊れる)ことを目撃する。

今回の映像作品を思い出すと、
はじめの方で二人で料理(あれは韓国料理だろうか、長芋のチヂミみたいなもの、私も食べたい)を作ったり、違いを撮影したり、授業に参加したり、車の座席を入れ替えるシーンがあったり、二人の自発的な行為ではない、田中さんの演出による行為とみられるものが多々ある。
また、授業や紙芝居など、今回の作品でなくても行われているであろう行為も、二人の自発的行為は一切関係ない「リアル」で囲われている。

ワークショップの手続きが、すでにあり、そこに参加者の身体が関わっていくことで現象としてタイムラインが作られている様子に感じられた。

特に、対話中にも話題に上がったが、「ウヒさんの変化」に顕著に出ている。

ウヒさんは、「在日コリアン3世」ではあるが、貧困でもなければ、直接的な迫害を受けているわけでもない。親戚の都合で訪れたアメリカや、ネイティブコリアンとの交流のなかで自分のアイデンティティーの危機に触れた。どことなく、自分個人の問題というよりも、社会現象の問題として「在日コリアン3世」を扱っているように思えた。

そのような彼女が、アルバムの振り返り、郷土料理の調理、ヘイトスピーチの動画の鑑賞、在日コリアンについての大学授業を受講、ヘイトスピーチ反対運動団体への訪問といった、「」で囲われた「リアル」を経たことで、
「在日コリアン3世」を身体化していく様子が、「振る舞い」を帯びてカメラにおさまっていた。

この振る舞いの変化が、あらかじめ想定されていたものなのかどうかに、改めて興味が湧いた。
なんだかよく出来すぎた物語のような気さえする。

それをドキュメンタリーとして、ギリギリに維持している要素として、ワークショップ性(指示やカメラワーク)がある。
でもそれは本当にギリギリのバランスで、いまだに、もしかして全て作り上げられた映画なのかもしれないと思っていて不安定な気持ち。

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対して濱口さんの作品「ハッピーアワー」について。こちらは「台本」=ストーリーがすでにあり、それと演者(映画を見据えたワークショップの参加者でもある。ちなみに素人。)の身体との関わり方について「本読み」という稽古を挟んでいる。また、「サブテキスト」という、映画の物語中には出てこないシーンについての登場人物のやりとりについての台本を用意していた。

これらも演者に渡される際に、決して物語上の正解では有り得ないこと、「このようなことがあった、かもしれない」という一つの可能性ー何なら一つの「パラレル・ワールド」ーであることは強調された。こうしてサブテキストが「物語上での正解」ではないことを繰り返し強調したのは、彼女らの演技が「正解に沿う」ことに集中してしまわないためだ。そうした意図は彼女たちの演技を結局のところ濁らせる。

サブテキストについて、濱口さんは著書「カメラの前で演じること」についてこう書いていた。
「正解」とは、一体リアルなのかフィクションなのか、というとてもナイーブなことに触れており、どきっとした。

この「本読み」と「サブテキスト」は、演者の身体に流れを与えており、演者の日常とは別の本人を作り上げている。
それをなぜ、私が言えるかというと、登場人物の行動や言動に対して、「疑問」を抱いたから。

普段、テレビドラマや映画をみると、全ての行為に理由(=意味)がある。推理ものだと「伏線」と言えるかもしれない。

「ハッピーアワー」の場合、自分だったらしないような仕草や、発音が多々あり、それに対して苛立ったり、面白がったり、違和感を持ったりした。ただそれらは全てその後の何かに関係するわけでなかったりする。
単に演者から出てしまった、「その人」である。

日常生活で、友人や家族に対して抱く感覚に似ている。
あの人なんで、あそこでこんな怒り方するんや??とか。
そういうことの積み重ねで、その相手との関わり方を形成していく。
たまに、いつもと違う、と思ったりすると、サプライズをされたりする。
(普段はあんまり意識していないけど、きっとそう)

台本があり、演者と登場人物が全く違う。映画というフィクションであることが自明であるにも関わらず、「その人」がスクリーンに映っていることが、とても不思議でたまらない。

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今日見たことを今日のうちに書いておきたかったので、まだ拙さ満載だけれど。

ドキュメンタリー=リアル
映画=フィクション
という点で真逆なものが、
ワークショップ的演出によって転倒している(やじろべえのように揺らいでいる)ことが、とても興味深いな、とシャワーを浴びながらスッキリした。

どちらの作品に関しても、「リアル」だろうが「フィクション」だろうが構わないのだけれど、
そのやじろべえに乗らされた、この私の身体はどうなるんだろうか、とも考えている。

そして、今日の「アッセンブリー」と呼ばれた対話の時間は実に不思議な構成だった。
田中さんの作品を見て、田中さんが企画して対話でありながら、田中さんがいない(当時は聞いてすらいない)まま進められる、内容について確認(正解との照合)がない、けど田中さんが終わりを告げる、一連の流れ。

私の身体(心も?)は一体どこ〜〜〜〜みたいな気持ちになって、空中に投げ出された感じ、悪くないね!