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民芸論 課題1

教科書がきてすぐ取り掛かったのが民芸論で最初はかなり難しかったけど
文献を読み漁るうちに理解してきたのが実感できた科目。
とりあえず第1課題は合格。第2課題も早速取り掛かりたいところだ。

民芸論のレポートは私見を述べているのでパクリは出来ないだろうから全文公開しようと思う。
ムサビ通信で取ってる人少ないみたいだし。現場調査しなきゃいけないし、社会人学生は難しいかも。まだ工芸論を取ったほうがいい。
年間1冊も本を読まなかったわたしがここまで本を読んで研究し理解した結果です。
評価はB。まぁ普通と言ったところ。テストのある科目だし、レポートはさっさと提出してしまいたい。でもいい出会いだったのでこれからも民芸品については日々意識して向き合ってみたいと思う。ハンドメイドアクセサリー作家を名乗るものとして、切っても切り離せない関係だなとも思う。
柳が手仕事の日本で「手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。」と述べているように心の仕事だと述べている。
確かにそうだなぁとわたしは柳が提唱した民芸に深く同意している。以下レポートです。

 民芸と聞くと観光地にあるその土地の工芸品や美術品を連想することが多いだろう。民芸という言葉を何気なく使用しているため、特別気に留めることはなかった。それを注視してみると、そこには身近な「美」が隠れていたことを知る。そこで柳が提唱した民芸論を考察し、私見を述べていきたい。
 まず、柳がなぜここまで民芸という言葉や美について広めていくことになったのか。それは浅川伯教が土産として朝鮮の陶磁器を持ってきたことから始まる。この朝鮮陶磁器との出会いが、柳の人生を大きく転換させていくものとなった。今まで見過ごしていた日常で使用する器に、芸術家が作成する美術品にも劣らない美を見出した柳はそれをきっかけに、何度も朝鮮へ渡ることになった。
もともとは雑誌「白樺」に芸術論や宗教哲学などの論考を寄稿していた。大学時代からバーナード・リーチに導きにより神秘的宗教詩人で画家であったウィリアム・ブレイクの思想に傾倒し研究を進めていた。自らの「直観」を重視するブレイクの思想は芸術と宗教に立脚する柳思想の形成に大きな影響を与え、美への思索を深化させていったのである。
 我々の生活の中で、食は欠かせない。食の彩り豊かにするのは雑器と言われる普段使いの器ではないだろうか。毎日使う器に佇む静かな美しさが食事を豊かにするのだ。器と食は深い繋がりがあると考える。器がなければ食事を目で楽しむことは出来ないし、食事を楽しむために器を選ぶことも出来ない。単に喜んだり、楽しんだりするだけではなくふとしたときに心が穏やかになったり、安心したり、器にはいろいろな感情が宿っているようにも感じる。雑器といわれる日常に使われる食器は安価で販売されている。美術品や観賞用に意図的に作られた物とは違い、そこには主張をせずに静かな美が佇んでいるのである。機械では出せない器のあたたかみがあり職人たちの個性が光っているのだ。それが「健全な美」なのだと考える。柳が「機械に依らなければできない品物があると共に、機械では生まれないものが数々あるわけであります。」と述べているように、手仕事のあたたかさは無機質な機械では出せないのである。
私の住む栃木県には益子焼という焼物文化が栄えている。焼物は、その土地の土を使って作る。まず豊かな土や水がなければこの文化は栄えていないと考える。豊かな自然の中に、豊かな生活が栄えるのである。益子焼の土は気泡を多く含み、薄い陶器は作りにくいため重くぽってりとした印象がある。その重さや丈夫さもあってか東京近くの大きな窯場として当時は台所で用いられる雑器の多くをこの益子から運んでいたという。雑器の陶器にはほとんど絵付けされることはなかったが、「益子の絵土瓶の如き今では大切な存在であるといわねばなりません」と述べたように益子の焼物は日常使いの雑器ですら美しいのである。現代の益子焼は柳と一緒に民芸運動を行った濱田庄司の影響を受けてまた新たな美しい器を生み出している。以前は台所道具として使われていた益子焼は益子の人々に食器として使われることはなかった。現代で益子焼は注目され、美しい器を作り手たちがそれを途絶えさせぬように今も作り続けている。そこには作る喜びと生活が結びついているのである。時代によって進化し続けているのだ。そして「健全な美」は自然によって美しさを増すのではないのだろうか。柳が「お膳の上に並ぶ器を見れば、その国の豊かさがわかる」と述べているように、多くの器が暮らしの豊かさを表しているのである。それは日本人の物を大切にする生活の知恵や心の伝統が日本独自の独創性を示しているのだ。現代では機械化が進み様々な道具があふれていて、使い捨てのものや廉価な商品は誰もが粗末に扱いがちである。これは柳が危惧していたことである。それに慣れてしまっている我々は手仕事で作られた道具は高価だと感じてしまうのだ。職人たちが己の時間を使い、手を使い、機械にも劣らぬ精巧さがそこにはあると言うのに、気が付く人は少ないのが現状なのである。しかしその土地に根付いた独特の文化をなくしてはならないと考える。この手仕事はこれから先も守らなければならないのである。
ここまで「健全な美」の中に豊かさがあると論じてきたが、我々は個々の人間であり美しさの感じ方も千差万別なのである。民芸という言葉に縛られて、極端に民芸品意外は美しくないと考えるのも適当ではない。それぞれの美の価値観があるからこそ、そこで誰かと繋がり共鳴し、また新たな美が生まれてくるのだと考える。前述した通り自分が美しいと思うものを他人に押し付けることはまた違うのである。だから個々の無意識の美を反映できる手仕事の文化は途絶えさせてはならないのだ。
我々の生活の中で一番多く触れるものがあまり注視されず誰もが気が付かなかった美しさを、柳は気づかせてくれたのである。

参考文献




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