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無性に焦っていたあの頃

「若い頃は、なぜだか無性に焦っていたわね」
新人のころ、お世話になった定年間近の先輩がつぶやいていた言葉を、今、よく思い出す。
あの言葉は本当だったなと、アラフィフになった今、しみじみと思う。

なんでだろう、20代、30代の前半くらいまで無性に焦っていた。
本社から離れた出先機関に配属されたこともあって、仕事の中枢である本社の動向を知ることはほとんどなく、ただ淡々と日々の業務をこなしていた。
本社に配属された同期たちが、どんどん自分を追い越して、先に先に進んでいるような気がしていたのかもしれない。

新卒で就職した人間なら、仕事が面白くなってくる20代後半から30代前半を産休と育休、育児に追われていた。
独身で自由で、華やかな仕事をこなす同期、東京や大阪、果ては海外に転勤していく同僚たちを羨ましく眺めていたのかもしれない。

社会人として何者にもなれない自分に不安を感じていたんだろうと思う。
他の人にはない何かが欲しい、そう思っていた。
なんでもいいから、他の人と違うスキルがほしい。

最初に配属されたところにいた同年代の同僚のK美さんが、英語の勉強を趣味にしていた。
同僚のカナダ人女性と流暢な英語でコミュニケーションをとるK美さんみたいになりたくて、私も英語の勉強を始めた。通勤の車の中で、英会話のCDを聞いてみたり、ラジオ講座を聞いてみたり、カナダ人の同僚と英語でメールでやりとりしてみたり。
2年ほど、結構いろいろとやってみたけど、結局、何にも身につかなかった。

その次はペン習字。
字がうまく書けたら、職場で重宝がられるかもなんて思って。
お正月や新学期になると、新聞の折込チラシによく入っている「1日20分で美文字に!」なんてうたっている、あの資格取得のCMでおなじみの会社のやつ。
教材一式で数万円はしたと思う。
はじめのひらがな、カタカナ、住所くらいまでは順調に課題をこなしていた。
そのうち、課題を毎日続けることが面倒になり、1週間に1度、2週間に1度、1ヶ月に1回あるかないか……となって、ついにやめてしまった。
このペン習字については、数年後もう一度、教材を買い直して始めたが、やっぱり途中で挫折した。

その後も、カルチャースクールや講座のチラシがあれば、何かできるものはないかと舐めるように眺めていたし、資格取得でおなじみのあの会社から資料の取り寄せを繰り返していた。

今、思い返せば、そんなに頑張らなくてもよかったのになあという感想しかない。

もちろん、英語もペン習字もできることに越したことはない。
ただ、今生きている私の人生には、あまり必要がなかった。
家族がいて、主婦として家事を切り盛りする身で、県外や海外に転勤願いを出すはずもなく、そもそも海外で働きたいという希望もないから、英語は必要なかった。

ペン習字については、綺麗な字で手帳や仕事の書類を書けることは、自分の精神衛生的にも、とてもいいことなんだけれど、いかんせん、夫の帰りも遅く、小さな子供の世話に追われながらフルタイムで働きつつ、たった20分でも寝ていたいほど、寝不足の人間には、大して好きでもないペン字の練習なんて、無理ゲーでしかなかった。長続きするはずがなかったのだ。

英語やペン習字につぎ込んだお金は、自分のコンプレックスや焦りを打ち消すためだけで始めたことは、結局、身につかないと知るための勉強料だったなと今は思っている。

向上心のかけらもないと言われるかもしれないが、今はもう、コンプレックスや焦りを打ち消すためのスキルアップや、資格取得、人と違うスキルを身につけるとか、全然考えなくなった。
そもそも、そういう焦りもないし、コンプレックスもない。
もちろん、自分よりずっと仕事のできる同期や同僚を見れば「もっと頑張らなきゃ」と自分を叱咤することはあるけれど、それも、自分の持っているものの中で、最大限努力すればそれでいいんじゃないかと思えるようになった。
逆に、好きなものに好きなだけ打ち込んでいれば、必要なものが、必要な時に与えられるんじゃないかと最近は思っている。

やめてしまったものがある中で、続いているものもある。
それはピアノと書くこと。

結局、自分が好きなことしか続かないということがよくわかる。
小学生の頃からやりたくてやりたくてたまらなかったピアノと、学生時代からやってみたかった書くこと。

仕事には全然役立たないし、ただ「好き」というだけで続いている二つの趣味は、全然うまくもならないし、しんどいことも多いのにやめられないんだよね。

やっぱり、続けるには「好き」な気持ちが必要みたい。

こうして文章を書いて見せあえるnoteを見つけ、いろんな人と知り合った。今じゃ、noteを越えて、一緒にご飯を食べたり、おしゃべりしたりできる人がいる。
「書いてよ!」なんて、ありがたくも企画に混ぜてもらうこともあって、毎回書けるかどうか心配なんだけど、それなりに仕上がると、自分も「書けるなあ」「できるなあ」と改めて知ることができて、ちょっとずつだけど、小さな成功体験を積み上げているよう。

仕事にしてもそうだ。若い頃、好きな仕事に出会って懸命に打ち込んでいた数年間があった。その後、いくつかの部署異動を経て、今、またあの時と同じ部署に戻してもらえた。やっぱりこの仕事が好きだなあと感じていて、今、経験者として期待されている、一目置いてもらえていることが、ありがたいなと感じている。

チャンスの神様には前髪しかないらしいから、こちらから取りに行かなければ得られないものもあると思う。
だけど、コンプレックスや焦りにお尻をたたかれながら、その前髪を掴みにいかなくても、チャンスの神様は、私たちをちゃんと見てくれていて、思わぬ方向から、私たちの前に前髪を垂らしてくれることもあるみたい。

「若い頃は、なぜだか無性に焦っていたわね」
先輩が定年前につぶやいていた言葉は、きっと何かに焦っているように見えた私に向けての言葉だったんじゃないんだろうか。私は、それに気づいていなかったんじゃ?
先輩は、そんな私を温かく見守っていてくれたのかも。

でも、もしタイムスリップして、あの頃の自分に会いに行けるとしても、過去の自分がいろんなことに手を出すのを止めるつもりはない。もがいていた時代があったから、今こうして「焦っていたんだなあ」と感じることができて、「そういうのもういいや」と思えるのだから。

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