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仲介者でありたい

今、職場が二極化している。
あのウイルスの影響で、猛烈に忙しい部署と閑散としてる部署に分かれてしまっている。刻一刻と変わるウイルスの拡大状況に、ほぼ不夜城と化して対応している部署があるかと思えば、活動自粛のせいで開店休業になっている部署もある。

人事が流動的に人を配置して、忙しい部署に余裕のある部署から応援を出しているけれど、なかなかうまく機能していないようで、「あの人も」「この人も」と知り合いがメンタル不調や体調不良で休職していく状況。
終息は見えず、この状況が一体いつまで続くのだろうかと、先の見えない真っ暗な道を誰もが手探りで進んでいる。

チームの中で一人でも休職者が出れば、そのしわ寄せはチーム内のほかの人に行く。ウイルス問題、そして同僚の急な休職と、もともと余白ゼロで働き続けている状況には相当堪えるというのは、よくわかる。
仕事ができる人間に、どんどん仕事が振り込むこともあるあるだ。

「その程度で休むなんて信じられない」
仕事のできる友人がぼやく。
彼女は、同僚がメンタル不調になる理由がわからないらしい。
「部下に仕事を押し付けて、残業もしないで帰る人間のどこにメンタル不調になる理由があるのよ」と彼女はグチる。

人が心折れる原因は、仕事の多寡という理由だけだろうか。
子供の問題や親の介護、家族や大事な人との別離、目に見えない病気や仕事以外の人間関係。それから、部下や同僚の能力の高さに圧倒されて、劣等感にさいなまれ、自分に絶望したり、周りが助けてくれるばかりに、自分の仕事がなくなって、居場所を見つけられなかったりすることだって理由になるのではないか。
仕事の多寡という目に見えるものだけが理由じゃない。
目には見えないいろんな理由が合わさって、それが積もり積もってある日、張り詰めた糸が切れるようにぷつんと心が折れることだってあると思うのだ。
心が折れるのは、コップの水があふれるのと似ている。
コップが小さければ、あっという間にあふれるし、コップが大きかったり、入る水の量が少なければ、あふれることはない。
だけど、そのコップは伸縮自在で、何かの理由で小さくなることがある。
例えば、家族間の心配事で心が埋め尽くされたり、仕事が合わなくて、昨日まであったはずの自信がぺしゃんこになったりすれば、コップはみるみる小さくなる。

コップを大きいまま保っていられるかどうかは、その時の運。
老いた両親もまだまだ現役で生活に心配がないとか、子供たちが元気ですくすく育っているとか、自分も家族も健康でバリバリ働けるとか、仕事が自分に合っているとか、職場の人間関係が良好とか、そういうこと全部、その時の運でしかない。
どれ一つ「ずっと絶対安泰」なんてことはなくて、明日、突然欠けてしまうかもしれない。

うまくいっているとき、人はそれを理解できない。
明日は我が身かもしれないということに気づけない。
明日も明後日も、来年も再来年も今と同じようにブルドーザーのように働けると信じている。
だから、自分より少ないコップしか持たない人を「どうしてあなたのコップはそんなに小さいのか。どうして自分みたいに大きくしないのか」と糾弾できてしまう。それってちょっと怖い。

ウイルスの感染より、そうやって二極化する職場で仲間同士がコップの大きさを比べ合って、自分より小さいコップの持ち主を見下したり、大きなコップを持てないことに劣等感や罪悪感を抱いて落ち込んだり、ひがんだりしている状況は、内紛。そんな会社は沈没寸前の泥船と同じ。ドロドロに溶けて沈みそうだ。

そして私もその一人。忙しい部署で最前線で働く友人たちを見て、あんなに働ける体力と気力がうらやましかったり、好きな仕事を自分にちょうどいい時間で働けることはありがたいし、喜ぶべきことなのに、死に物狂いで働く友人たちを見て、自分の環境を恥じてみたり、叩かれるのが怖くて、声を大にして「仕事が楽しい」と言えなかったりする。

この状況が良い方向に向かうとは思えず、ただ胸の奥がモヤモヤする日々。

少なくとも自分は、コップが小さい人を見下すことはしないようにしたい。せめて、私の友人のようなコップの大きな人に、コップが小さい人の気持ちが少しでも分かってもらえるように、言葉を尽くしたいと思う。

会社内には、ほかにもいろんな二極化と対立がある。
既婚者と独身者、子供がいる人といない人、家庭を優先する人と仕事を優先する人。

傲慢で身勝手にな自分の性格は重々理解しているからこそ、自分と違う価値観の人を切り捨てることだけはしないでおきたいし、二極化する会社内の仲介者でいたい。



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