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人生の傑作を書こう

「もう、丸刈りにしたい!!」
朝っぱらから、イライラした声で娘が叫んでいる。
土曜に模試のある日はいつもこうだ。もはや、ルーチンワークか。

「朝起きたら、こんな頭だったんよ! もう!」
左の頰の、跳ねて飛び出した寝癖の髪の毛をつまんで、娘が私に訴える。
髪の毛をつまんだ手を離すと、若い子特有の太くて黒々とした髪の毛が、サラサラと戻る。でもほんの少しの毛束が、跳ねたまま戻らない。ただほんの少し。

「ここのこの髪の毛の寝癖が戻らないの!」
ストーブの前に突っ立って、何度も何度も必死で寝癖で定位置に戻らない髪を結わえ、ヘアピンで抑えながら、娘が言う。
「昨日、ちゃんと乾かさずに寝たんじゃないの?」なんて言おうものなら、10倍いや100倍は言い返されるので、「ふうん」と適当な相槌を打ってやりすごす。

私から見れば、ほんの少しの寝癖。
多分、誰も気づかない。母の私からすれば、いつもの娘。いつも通り、かわいらしい。けれど、おしゃれを気にする女子高生の娘にとっては、寝癖があるかないかは、生きるか死ぬかと同じくらい重要案件なのだ。

「それくらい、気にならんよ」
言わなきゃいいのに、夫がリビングにやってきて、娘に言う。
ああ、言っちゃったよ。ほらバトルが始まる。
「それくらい!!? こんなにだよ! すっごいかっこ悪い! 最悪。もう髪の毛全部切って、もう丸刈りにしたい! パパはちゃんと見てないんだよ!」

ほら言わんこっちゃない。
丸刈りなんて、極限のコメントが飛び出したよ。
「もう、いいわ!」
娘は、ドスドスと大きな足音を立てて、リビングを出て行った。ふう。

ああ、そういうことだ。

最近、仕事も思うように捗ってなくて、予定していたこともなくなりそうで、会いたい人にも会えなくて、noteも全然書けないし、コメントもシェア文もちっともさえなくて、かなり落ち込んでいた。
「しんどいよう」と呟けば、たくさんの方から励ましていただいて、本当にありがたかった。だけど、その優しい言葉の数々が心の奥までしみてこなくて、それでまた申し訳なくて、落ち込んでを繰り返していた。

私って何もないな。何もできないな。ダメだな。
なんて、一人イライラして、嫉妬したり、八つ当たりしたり、頭をかきむしったり。

でも、多分、これは娘の寝癖と同じ。
ほんの少し、うまくいかないところや、人とずれているところがあることを、クローズアップして見ているだけなんだろう。
できないところにカメラをズームして見ているだけなのだろう。
きっと、いつもと変わらない私が、そこにいる。

なんて、つらつらと考えていたら、先ほど、TEDで、とてもいい講演に出会った。

講演をするのは、アメリカのセラピスト、ロリ・ゴットリーブさん。
彼女に届く相談を例に、自分の物語とはどうあるべきかを語っていた。
(ネタバレあります)

自分に言い聞かせる物語以上に人生のクオリティを左右するものはない

自分の物語を「つらい」「不幸だ」と描くのか、「幸せだ」「満たされている」と描くのは、自分次第だということだ。
寝癖が治らなくて「辛い」と思うのか、それをうまくごまかせて「えらい」と思うのか、はたまた気にせず学校に行って「おおらか!」と感じるのか、選択肢はいくらでもある。どれをチョイスするのかは自分次第。

ロリさんは言う。

人は、自分についてのフェイクニュースを書く

人生に正解はない。
ついつい、正解のコメント、正解の行動、正解の生き方を探しそうになるけれど、正解なんてないんだ。
あるのは、そうなったという事実だけだ。
寝癖がついてしまったとか、髪の毛がまとまらないとか、選ばれなかったとか、思うようにスキがつかないとか、PV数が上がらないとか、シェアしてもらえないとか。
その事実に、「ああ、ダメだ」とか「嫌われてる」と、味付けしているのは、自分。

みんな死ぬんだと思い出してください。
そして、編集道具を出して、そして自問してください。
自分の物語をどんなものにしたいのか。

私は「ああ面白かった」と言って死にたいと常々思っている。

自分のお葬式の弔辞で、「面白いことを見つける天才だった。どんなことでも果敢に挑戦し、失敗し、それでも懲りずに、また挑戦し続ける『懲りない人』だった」と言われたい。

最後に彼女が言った。

人生の傑作を書こう。

しばらくして、リビングに戻ってきた娘の顔をちらっと見たら、悪戦苦闘していた娘の寝癖は、娘の手によって綺麗にまとめられて、全然わからなくなっていた。なんだかんだ言って、ちゃんとできるじゃん。

静かになった家の中で、私は懲りずにまた、パソコンに向かってこれを書いている。人生の終わりに、傑作が書けたと思えるように。


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